今日で3月が終わり。今年の3月は長く寒い一ヶ月であった。でも気が付くと春の温もりの駆ける早さが早くなり、例年と変わらない春となった。
風が温んできたのは雑草が一番早く察知する。雑草と呼ばれるだけあって、逞しい生命力である。この二、三日は毎日草むしりに追われているようである。特に腰痛のすっかりと治まらない小生にとって、草むしりは大変な作業である。だからその分だけ、雑草たちの逞しい芽吹きには感嘆する以上に腹立たしくなってくる。
昨夜、何とか六月公演の台本の初稿を完成させたのであったが、朝から声に出して読み返し、少し手を入れ、早速共演していただける柏木久美子さんにメールで送った。ユッキーちゃんには明日届けようと思う。
ユッキーちゃんには、今回少し新しい舞にチャレンジしてもらおうと思っているので、台本を見るとまごつくのではないかと思っている。
ことば座も今年は五年目となるので、少し新しいことに挑戦していこうと思っている。その意味で、六月の公演に柏木さんの共演をいただけるのは有難いことである。
(ヒロ爺)
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今日はすっかり春のうらうらの陽気。治りきらない腰痛を庇いながらうらうらの陽気の中近くまで散歩してきた。桜の蕾が、すっかり膨らんできて、もう何時でも良いよと囁いているようだった。
未曾有の大災害で、春を待ちながらも何となくうらうらの気分を避けようとしてしまうのだが、季節の移ろいを喜び、楽しむ気分を忘れては希望を紡ぐ思いも小さくまとまってしまうのではないだろうか。明日の希望は大きく描くほど置かれている窮状に惑わされることなく、確かな明日を紡ぐことができるものだと思う。
先週から、常世の国の恋物語第27話の台本を書くためにパソコンと格闘していたのであるが、ようやく終わりそうだ。今回は、二人の舞姫のための詩を紡がなければならないので、何時もより時間がかかると思っていたが、思っていた以上に格闘を強いられた。しかし、この格闘は楽しい格闘であった。今、粗方完成した台本を読み返しているのであるが、まずまずの出来ではないかと思っている。今夜は、とにかく一度完成させて、ゆっくり睡眠をとった後に見直そうと思っている。
さあもうひと頑張りしよう。
(ヒロ爺)
先日、20日ぶりぐらいにギター文化館へ出かけてきたのであったが、途中に早咲きの桜の咲く場所があるのだが、満開であった。たぶん河津桜であろうと思うが、正確にはわからない。地震の所為で春が遅いと思っていたが、春は確実にやってきている。
庭の蕗の薹は全部取り尽くしたと思っていたら、隠れたところに一本、30センチ近くも背を伸ばして花を咲かせていた。それを見て何だかとても大きな安心を覚えた。
大きな安心を覚えた所為ではないだろうが、今日は、台本の執筆が大きく進んでいる。この分だと、今晩中には書きあがるかもしれない。早く完成させないとユッキーちゃんに未だですか、と催促されてしまう。今回の本は、小生も出来上がりが楽しみな本である。良い本になることを願っている。
(ヒロ爺)
地球の表面というのは牛乳を温めたときに表面に張る幕のようなものだから、大気に触れている部分は何時も変化をしている。当然、地球上にはどこに居ても地震は必ず起こるものである。地表に勝手な構造物を作り上げてしまった人間は、それを破壊されるような変動が起こると天災というが、すでに地球に地震は避けられない運動であることを知っているのだから、そこに構造物を構築することは人災というべきなのだろう。
世界の屋根といわれるヒマラヤ山脈も、地殻変動によってできたのだから、その時には今の東日本大震災どころの振動ではなかっただろう。一時に何千メートルも隆起したわけではないであろうが、海底であった部分が8千メートルも隆起したのであるから、その周辺の振動は想像を絶するものだったに違いない。
小生、物理や化学の進歩を否定する者ではない。むしろもっともっと人間らしく暮らしを創造していくために必要となる科学の進歩は加速してもらいたいと思う一人である。だが、バベルの塔を築こうとは考えたことはない。
この大震災で多くの被害を受けた。しかし、その被害に中には回避できたものがあったことも事実である。これから新しい復興を皆で目指すのであるが、先に行って自らの首を絞めるような、バベルの塔を築くことは絶対に阻止しなければならないと思う。
人は地球という自然の一部なのだから、そこに暮らすためにもっと自然のささやく声に耳をすませ、謙虚に聞くことが必要だ。地の震えは何を吠え風の流れは何をささやいてくれているのだろうか。
(ヒロ爺)
11日の大地震以来、毎日何回となく余震が続いている。体に感じるものそうでないものを数えると数百回以上、揺れているという。だから長い長い地震酔いの症状なのだそうだ。そんな所為か、今月末締め切りの台本がいっこうに進まない。
しかし、よく考えてみると原稿の締め切り前というのは何かと理由をつけて作業を回避しようとするものだ。そして、いよいよ明日が締切という日に狂ったように書き始める。脚本家になって、何十年これを続けているのだろうか。脚本家は自分の天職である、と思う反面、そこからいつも逃げ出そうとしている。おかしなものである。
おかしなものといえば、逃げ出そうとしながら、舞のための詩は脈絡なく次々に口に突いて出、書きとめるのに苦労している。軸となるストーリーに肉付けとなる詩なのであるが、このまま勝手に詠み重ねていくと、愚鈍でただのデブの台本になってしまう。
締め切りの前日まで、恐らくこんなことをやっているのだろう。毎度のことではあるのだけれど。
少し前、地震のアラームが鳴り、大きな地震がきますとテレビにアナウンスが流れたが、小さな揺れがあっただけだった。それで、だから本が進まないんだ、などと悪態をついて今日の理由にしてしまった。
(ヒロ爺)
愚かなことと分かっていても愚かなことを繰り返し行ってしまうのが人間だ、と言ってしまうことは簡単であるがそれでは余りに自分が惨めにならないだろうか。小生も愚かなことを繰り返すのが人間と口にすることはあるが、すぐに不愉快な気分になる。
古今東西、人間という奴は、本当は僅か過ぎる利であるのに独り占めしようと考えたりして取り返しのつかない事態を招いてきたようである。もうそろそろその繰り返しを止めにしたいものである。
脚本の構成をしながらこんな詩を書いてみた。
僕等は素敵な言葉を聞いたとき
心やさしくなったり
新しい恋を感じたり
恐れたり
怒ったり
その素敵に誘われて心が模様する
僕等はさらさらと流れる言葉を聞いたとき
心もさらさらと流れ出す
僕等はうるうると心揺れる言葉を聞くと
心もうるうると揺れて何かを予感する
だから言葉は音楽であり舞なのです
人は心の中に音を忘れ舞を忘れると
憂いなく枯れ枝のようにカサカサと
そしてポキポキと折れてしまうのです
人は言葉を詠わなければいけない
人は言葉を紡がなければいけない
(ヒロ爺)
今日は、腰痛もだいぶ落ち着いてきたので、地震後初めてギター文化館へ出かけてきた。途中から眺められる里山は、すっかり春を迎える準備を整え、固く閉ざしていた新芽がほんのりと赤みをさしていた。
ギター文化館の喫茶室から改めて里山を眺めていたら、この大震災の復興活動を機に、ふるさとの文化復興を今こそ真剣に考えなければならないなと思った。
小生の大好きなギター文化館であるが、このギター演奏のために設計されたホールは、ギターと冠してはいるが実に多彩で無限大の可能性を秘めた文化ホールである。この魅力あるホールの力を借りて、常世の国と自慢するに値する芸術文化のメッカとしたいものである。
かつて未経験の大震災に見舞われ、明日の希望をもぎ取られたかの気持ちに陥ってしまうが、里山を見るといかに大震災があっても着実に春の支度をすませ、明日の暖かい太陽の顔を出すのを待っているのである。
文化レベルの低いと嘆いていても始まらない。この故郷の文化が何時大災害にあって精気をなくしてしまったのかは知らないが、春の来ることを信じてその準備を整えなければ、明日陽が昇っても芽吹くことは出来ない。
小生も小生なりの春の芽吹きの準備をしなければ。
(ヒロ爺)
小生の腰痛もかなり回復し、起き上がりは聊か難儀であるが、歩くのは苦痛がなくなってきた。
こんなガラクタのような肉体を抱えていると、昨日も書いたが「まほらの風に~」を呟いておられる木村兄の災害
・暮らしの情報は有難い。暮らしにとって本当に必要な情報と言うのは、大げさなこれぞ情報といった訳の分からぬ塊ではなく、土浦ではガソリンも楽に入れられるようになった、などの些細なものほど大きな情報なのである。この情報により、石岡ももう二・三日もすれば間違いなくガソリンが入れやすくなるだろう、と今日を恨まなくなるのである。放射性物質の人体に影響有る無しの話よりも遥かにこの先のシナリオが描ける。シナリオの描けぬ情報を山ほど貰ってもお返しする以外ないのである。
さて、6月公演の脚本を構成しながらこんな言葉が浮かんだ。
言葉とは心の流れ
風にも心の流れがあり
水にも心の流れがある
だから
風の流れにも水の流れにも優しい明日のうたがある
優しい流れのうたを聞いたら命あるものは
風の流れに舞い
水の流れに舞おう
(ヒロ爺)
昨日から余震が頻繁にあり、机に向かっていると何だか一日中揺れているような錯覚にとらわれる。
午後、わずかに薄日が差したとき少しは動かなければと庭に出て、腰痛を庇い庇い歩き回った。梅の木に大きな蓑虫がぶら下がっているのであるが、その蓑虫の顔を見たことがないので今日は見てやろうと暫く観察していたのであるがとうとう顔を出さなかった。その代り山頭火の句が思い出された。「ひょいとのぞいて蓑虫は鳴かない」 何気ない句であるが実に大きな物語を持って詠まれている。
わが国最大級の大地震に襲われ、そのお蔭で一方向からだけを見た物語を描いてとんでもない人災を招いている。今もこの人災に右往左往させられているのであるが、大事なことは、この右往左往の中で次にどんな物語を描くのかである。
山頭火の句を思い浮かべながら、蓑虫は鳴かない、の言葉から連想される物語の何と無限大なことかと驚かされる。人間の進歩や発展は物語を書くことから始まる。物語に本当の夢が書かれていなければ、その夢は飛んでもなくリスキーな現実を運んでくる。電気エネルギーを軸にした人間の文化、文明は計り知れないほどの物語を展開させてくれている。しかし、余りにも安易な文明の物語を書いてしまうことは自己破壊行動以外の何物でもなくなってしまう。
今、私たちは当面する人災を乗り越えることに全力を尽くしながら、この人災を栄養にして次の確かな物語を描くことを思考しなければならない。
人はみな詩人であり、未来の表現者なのだから。
毎日、師匠木村さんの書き込まれる地震とその災害情報には頭が下がります。
小生も、描かねばならない明日の物語へのあるべき視点について、少しでも役立てるように書きたいものと思っている。
(ヒロ爺)
今日も大きな余震が何度もやってきた。ガタガタ音もせずゆっさゆっさと揺れる余震であった。11日の大地震の時と同様に部屋の真ん中に天井を見上げるように座り、鷹揚な揺れ方をする地震を楽しむと言うと変であるが、ゆっさの揺れ天井を眺めていたら、突然に種田山頭火の言葉が思い出された。「死ぬことは生まれることよりもむつかしいと、老来しみじみ感じないではいられない」である。この山頭火の言葉を思い出しながら、地球も生きているんだからクシャミぐらいするだろうと思った。
地球が生きていてクシャミもするのであれば、鼻先に香の強い化粧をしたりアクセサリーをぶら下げるなどは愚の骨頂である。原発の放射性物質に右往左往している毎日であるが、そもそも原発自体は鼻先に香の強い化粧を厚く塗りたくったようなもので、今までくしゃみをしなかったのが不思議なほどである。
世の中に絶対はないけれど、原発の安全性だけは絶対です、とは良く言われていた。原発に関係する偉い先生たちはみな口をそろえてそう言っていた。しかし、その安全性も、システム信頼性工学の父と言われているルッサー氏が言っている剰積則に照らして考えたとき果たして絶対安全といえたのだろうか。アメリカのスペースシャトルは各システムの構成部品をシックス9で管理をしていると言われ、絶対安全と言われたが、打ち上げ時に爆発炎上をしている。
種田山頭火の句にこんなのがある。「われをしみじみ風が出て来て考へさせる」
(ヒロ爺)
大震災後初めての本格的な雨降りであった。大気中に漂う放射性物質は一端地上に降りて濃度を下げてくれるだろう。しかし、それは消えてなくなるということではない。野菜の放射性物質の濃度で昨日から見せられ、聞かされる茶番劇には不愉快にさせられる。
昨日も少し呟いたのであるが、原子力発電を政治的とはいえ多数決で決めたのだから、その時俺は反対したなどの意見は通用しない。その時にはまだ選挙権はなかったというのも通用しない。群集心理に騒ぐ前に、自分の責任としてもっと勉強しよう。
小生の尊敬してやまない故三上美樹先生が放射性物質の催奇性に於けるメダカの実験論文で世界的に有名になられたのは、ビキニ環礁での原爆実験で被曝した第五福竜丸事件のすぐ後であった。日本に原子力発電所の建設される前のことである。それから何十年たっているのですか。
何か疑問や不安があったら人の噂話に右往左往しないで、徹底的に調べ、質問して確かな答えを持って行動しようよ。放射性物質等における問題では、自分だけ助かれば良い、ということは決してないのだから。逃げても隠れても被害は平等にやってくるのだから。
今夜は未だ雨で、外に出て見上げても天に星の瞬きは見えない。でも雨雲の向こうには星は昨日と変わらず瞬いているのだ。明日の夜は、星に願いを呟きたいものである。
(ヒロ爺)
腰痛のゆるす範囲に町を歩き、地震は天災で避けられない必然であろうと思い、構造物や物の破壊は人災で回避すべき手立てはあったのにと思い心が痛まれた。テレビで流される災害の解説は誰も彼もが、こんなことを言うとおしかりを受けるであろうが人災奨励者である。どんぶりの隅を突く様な批判的解説をして得々としている。そんな批判をするのならば、それを何故止めようとしなかったのかと意地悪を言いたくなる。
多数決の民主主義というものがある。これは自分が少数の反対派であっても、決まってしまえば自分も賛成したことになるのである。俺はあの時反対したのだから、その問題の責任は俺にはない、ということが許されないのが民主主義というものなのである。
小生のブログの師である「まほらにふく風に乗って」のブログを開設している木村さんには頭が下がる。石岡市の地震情報を毎日数回流しておられ今日は第26回になっていた。それに引き替え石岡市の地震情報なんてお粗末なものである。情報ということの意味を全く理解していないと断言していい。アホなTV解説者と同じである。その石岡市の議員で、議員の報酬を上げろと言っている莫迦がいるという。
今日は暖かったせいか腰痛が随分やわらぎ、筋力体操のため腰に負担の無い様にしながら庭の草むしりなぞをやってみた。野菜の放射能汚染のニュースを耳にしながら、庭の風にため息をついてみた。そうしたら温もりのある風が沈丁花の香をきかせてくれた。例年であれば、沈丁花の香をきくと酒場女を思い出してしまうのであったが、今日は春に希望を持たねばと思わせてくれた。
二時過ぎに息子から電話が入った。今、成田。10日程アメリカに行かねばならない。何か必要ななものが生じたら嫁に言うようにとのことであった。父は喰うに困らんよ、庭にハコベが生えているかお浸しにも、卵とじにも出来るからな、と言ってやったら「変なもの喰って腹をこわすな」と言われてしまった。
(ヒロ爺)
立原正秋氏の小説の中に「信じられるのは美」という言葉がよく用いられているが、東北関東大震災後の次々と連鎖して発生する悲しく醜い事象を見せつけられ、改めて立原氏の言う「信じられるのは美」という言葉が切実に心に突き刺さってくる。美とは文化の中にあるもので文明の中には無いものである。
今夜はまたまた強い余震に襲われた。
こんな時に、こんな意見を言うと不謹慎に思われるかもしれないが、小生は天災に己の命を落とすことにはそれ程の恐怖感はない。それよりも天災の後にやってくる人災に命を落とすことは嫌である。天災に命を落とすことは自然の摂理であるので、その摂理に逆らい恨む感覚はない。だが天災に生本能で必死に逃げのび生き残った後に、天災が天罰のごとく与える人災で命を落とすことは断じて悔しく、納得がいかない。
人災というやつは、一部の我欲の突っ張った奴らの懐を膨らませることで発生するものだから、美の欠片もない。醜いだけのものである。
心とは美を褒めるためにあるもので、我欲を満たして喜ぶためのものではない。かつて経験のない大地震の余震の中、切実に「信じられるのは美」という言葉を思い出し噛みしめている。
そんなことを言ったって無くなったら困るし、不便だと買いだめに走ることの恥ずかしすぎて醜すぎることを少しでも自覚することができたら、美しいものがもっと美しく見えるようになるだろうと思う。
(ヒロ爺)
落ち着いた顔をしているようで矢張り心の裡は平静ではなかったようである。
余震も少し落ち着いた今日は日差しも温かく、お猫様を抱いて庭を久しぶりにゆっくり眺めまわしてみた。すると化粧の香が鼻腔に届いてきた。昨日も庭で最後の蕗の薹を摘み、蕗味噌をこしらえスーパーに物がなくてもご飯を炊けばこの味噌で腹を満たせるとこの災害を楽しむ気分にいたのであった。しかし、それは単なる理屈で、沈丁花が春の香を啼いていることに気付けなかったようである。
泰然自若に落ち着き払っているようであるが実は気の小さい奴だなと改めて吾を見直し笑っている。
(ヒロ爺)
全てのものに終わりはある。
永遠も絶対も言葉の概念。
永遠と絶対の存在するのは移ろう時だけ。
十進法であろうが十二進法であろうが移ろう時だけに永遠と絶対が存在する。
それは移ろう時とは物ではないから。
驕り高ぶった人間は、永遠と絶対を手に出来るとバベルの塔を築こうとする。
盛者必衰のことわり、と言いながら盛者永遠の物語のない夢を見る。
余震の続く中、哀れな地球の人間よ、などと思ってみる。
(ヒロ爺)
東日本大震災のために「ふるさと風の会」の会報作りが遅れていたのであるが、今日、それこそ塵裡に閑を偸んでワイワイと雑談に花を咲かせて印刷製本を終わらせてきた。会員全員大した被害もなく無事であったのが何よりである。風の会は、月に二回の会合を持っているのであるが、一番楽しくにぎやかなのは、今日の会報作りである。
それぞれの住まい自体には被害はなかったが、何やかやと雑事が増えて忙しい思いをしている。そんな所為もあってか雑談にはついつい口が悪くなってしまう。中でも小生は飛びっきりの口の悪さである。だが、腹の立つ罵詈雑言も気の合う仲間たちとの雑談に込めてしまうと、愉快の一つになってしまう。
相変わらず小さな余震が頻発しているが、これも愉快に笑っていれば直ぐに終息するのではないだろうか。とは呑気なヒロ爺である。
(ヒロ爺)
石原慎太郎氏が、東北関東大震災について「天罰」と話したことにくだらぬ非難が浴びせられていた。彼に同調する気はないが、この大震災を天罰ととらえて、自分たちの日常を見直してみることが必要であろうと思う。
戦後日本人は、俄か民主主義と急発展に浮かれて、悲惨な敗戦を招いた「おごれる者もひさしからず」をすっかり忘れ、盛者は永遠とばかりにおごれる発展に明け暮れ、石原氏いわくの我欲にまい進したといえる。
天罰という言葉の善し悪しは別にして、天からの罰はいろいろな形で示されてきたのであるが、気づこうとしなかったのは我欲にまみれていたと指摘されても仕方がないであろうと思う。大災害を後押しするかのように、杉の大花粉軍が猛威を振るっている。スギ花粉症が問題視され始めたときに、大事な里山の雑木林を破壊した天罰が降りてきたときに、それを天罰と認識すべきだったのだろうと思う。
原発事故でのバカげた解説に苦言を述べたが、こうした事故の起こることは当然解かっていることである。石油という燃料が枯渇するのであるから、これ以上の文明の利器を追及するのであれば原発は仕方のないことなのだ。
今更のように思い出すのであるが、昔、三重大学の学長であった三上先生から安全の証明は推測統計学などによって容易にできるが、毒性があるという証明は難しいのだ、とお話しいただいたことがあった。
本当にゾ~ッとする話である。
そんなことを思うに、石原氏の言う「この津波をうまく利用して我欲を一回洗い落とすべき」は言い方の好き嫌いは別にして、作家としての正しい姿勢であると思う。
(ヒロ爺)
地震の影響で、我が家に難犬がやってきた。名は「なっちゃん」。おとなしく利口ないい犬である。ゴルフ場に捨てられた子犬を野犬にさせないでゴルフ場が飼っている犬で、我が家の奥さんがゴルフ場がオーップンするまで連れて帰ってきたのである。最初はお猫様は静かにしていたのであるが、皆が「なっちゃん」の小屋を作っているのを見て、自分が無視されていると勘違いしたのか次第に腹を立ててきたらしく、尻尾を三倍も四倍も膨らませ、背中の毛を逆立てて怒り出したのである。
慌てて抱っこしてやり、怒らない怒らないと撫でているうちに落ち着いてきたが、庭につながれているのが気になって仕方がないらしい。小生が庭に出ようとすると猛スピードの飛んできて肩にしがみつくのである。
ペットたちにも今回の大地震は、被害甚大なのである。
昨日のブログに描いた怒りが通じたのか、今日の原発事故の解説は少しましになっていた。
未曾有の天災なのだ。ちっぽけな私欲を捨てて、明るく助け合ましょう。人間なのだから。
そういえば、本日漸くギター文化館と連絡が取れ、無事を聞いてホットしている。
(ヒロ爺)
もう十三、四年ほど前のことだったと思う。原発におけるアクシデントマネジメントに関する教育映画の脚本・監督を頼まれたことがあった。史上最大の今回の地震で福島原発に事故が発生した。そのことで的外れとは言わないが、かなりな低レベルな解説、論説を評論家と称する人たちが話をしている。言ってみればマスコミ受けするような低レベルなコメント披露なのである。同様に原子力発電の管理委員会と称する者たちの話もお話にならない。
映画の監督、舞台演出家という仕事は、自分のスタッフに対して絶対的な信頼を持って接する。そうしないと監督の考える最高の仕事をしてもらうことが叶わない。
アクシデントの発生した原子炉では、オペレータは出入りを遮断され、終息することだけに現場の英知を集中させている。終息させなければオペレーションルームからは出られないのである。オペレータには終息不可能の言葉も感覚も持っていない。当然、さらなる大アクシデントが想定されるときには、避難命令発令の勧告を出す。しかし、彼らは職場放棄して逃げることは許されていないのである。
小生の知っているアクシデントマネジメントは一昔前のもので、現在はもっと進化し優れたマネジメントシステムを持って行っている筈である。圧力弁が作動しなかった原因は…ああだ、こうだ、などと終息行動を懸命に行っている者のスキルを無視し、己の低い知識をひけらかしてのマスコミ登場はどうかご勘弁願いたい。
現場科学という言葉がある。映画監督であった小生は、現場のスタッフに絶対的な信頼を寄せたい。現場科学の及ばぬものであれば、それは神のご意思と考えるほかあるまい。
(ヒロ爺)
いやー魂消た魂消た!腰痛で身動きが取れない小生を独り部屋の真ん中に座らせ、大揺れに揺れること揺れること。多くの家でブロック塀が倒れたり、瓦が崩落したりしたのであるが、古民家もどきの吾の住むぼろ屋は瓦一枚落とさない。大したものである。そして、家も大したものなら住人の小生も大したもの。家の真ん中に座り、魂消た揺れだ、と呟きながら冷静に家の揺れる音を聞ながら、この音なら潰れないと勝手に断言し、お猫様を抱いて電燈のブルンブルンと揺れるのを眺めていたのである。初期の一分をやり過ごせば大丈夫と覚悟を決めて座り込んでいたのであるが一分が過ぎても止む気配はない。それどころか第二弾の振動がオーバーラップしてやってきたのだ。家の軋む音を聞きながら、大丈夫と自信たっぷりに声してみるも、腰痛で動けぬ身の空威張りであった。
漸く振動が収まり、杖をついて庭を一回り。屋根を見上げても瓦は無事であった。葛飾柴又の寅さんの口上ではないが「見上げたもんだよ屋根屋の褌」と声をだしヨシヨシと思った途端、第二波の揺れ。瓦は落ちることはなかったが、地震の時は屋根屋の汚れた褌何ぞを見上げていてはいけないことを教えられた。
(ヒロ爺)
強かに打ちつけた肩、腰、膝は一向に回復の気配を見せない。節々が熱っぽく不愉快に痛い。これでもう何日この不愉快を訴えているのだろうか。歳をとり老人になっていくことには何の抵抗もないし、若くなりたいとも思わない。現在の知能・知識・知恵がそのままで肉体だけが10年若返るのであればありがたいが、ただ若くなるだけなら今のままでいい。だがそれは健康であればの話である。今回の打撲傷のようなものを受けると、不愉快が回復するのに予想以上に時間を要するのである。これには呑気な小生も流石に参る。明日あたりはそろそろ体の不愉快な話題はやめにしたいものである。
(ヒロ爺)
意識不明になって倒れてちょうど10日になる。まだ本調子と言うより、腰痛、膝痛、肩痛が一向に収まらない。いろいろやらなければならないことがあるのだが、机に向かっていると全身が軋む様に痛み長時間集中して作業をすることができない。小生、かなり騒々しい環境の中でも書き物をするのに支障をきたさないほうなのであるが、この関節痛にはイライラさせられる。特に腰痛は眠っているとき以外常に疼いているのである。腹を立てて少し乱暴に動いてやると途端に激痛が全身を走るのである。
全くイライラさせられる。意味は全く違うのであるが「思いのとどかず水仙花の咲かず」である。肉体に健康が届かないと精神の健康など思うも許されないということらしい。
(ヒロ爺)
昨日、再検査で再度異常なしの診断を受けたのであったが、それは内科・神経科的な異常は見られないということで、今日は外科的苦痛が最高潮に達してしまった。これはまさしく重度の腰痛である。お猫様も心配そうに、椅子に座っている小生の膝の上にはやってこない。ちょっと動くたび「イテテッ!」と声を上げる小生を見て膝の上はまずいと判断しているのであろうか。
小生勝手に思っているのであるが、今日の激しい腰痛は回復への風前のともしびのようなものだろう。明日は、目覚めるとフッツリと痛みが消え、ピンピン、シャンシャン活動できるのではないかと、楽観的な希望を描いているのであるが、はてさてどうなるのやら。
(ヒロ爺)
朝の雨が直ぐに雪になり、3時過ぎまで雪に降り込められた一日であった。今日は、朝から病院で、先週の日曜日に低血糖と貧血症が合わさったような症状に突然襲われ、膝、腰、肩を無防備な状態で地面に叩き付けられ打撲した原因を突き止めるために、検査データーの解析を複数の医師たちにやってもらったのであったが、MRI、脳波、心電図等など全てに異常は認められなかった。血圧が低く時々立ち眩みを起こすのであるが、たまたま低血糖がぶつかり倒れたのであろう、と診断された。軽い眩暈に似た症状はよく体験するので、次からは軽い眩暈と侮らないで、直ぐに横になり眩暈を落ち着かせる、の対処でしばらく様子を見ることとなった。
病院に入るときは雪交じりの雨、といった感じであったが、帰りには本格的な春の雪となっていた。
今日明日は、少しのんびりさせてもらい、水曜あたりから6月公演の脚本に着手するとしよう。
(ヒロ爺)
今日は、野口さんとの初のオカリナと朗読のコンサートであった。生憎、先週の日曜日に原因不明の意識消失によって倒れ、腰痛となり車椅子でステージに立つことになってしまった。朗読する声にも些か力が落ち、自分の思い描いていたものとはかなり違った表現になってしまったが、今日の精一杯であった。しかし、アコースティックギターのOKAYANNとのコラボレーションはかなり楽しいものとなった。次に、体調を万全にして再チャレンジしてみたいと思っている。
小生の詩「なは愛しきもの」を野口さんが作曲し歌ってくれたが、本当に優しい唄に仕上がっていた。
野口さんとの次回のステージは9月になるが、その時には万全の体調でステージに立ちたいと思う。
(ヒロ爺)
強烈な腰痛が襲ってくる。恋歌の朗読の最終稽古をしながら断続的な腰痛に悩まされる。腰痛なんて全く縁のないものと思っていたのであるが、なってみると本当に容易ならざるものであることが理解できる。明日の舞台は、車椅子にすることは倒れてすぐに決めたので、その事には問題ない。腰痛と言うもの、同じ姿勢を続けていて、体勢を変えようとしたとき、強烈な電流の走ることをはじめて知った。
一区切り朗読が終わり、姿勢を動かそうものなら大変な痛みに襲われる。おもわず涙が流れてしまう。観客には大した感情移入だ、なんて思われるのだろうか。しかし、明日朗読する詩は涙の流す恋歌はない。
明日は、アコースティックギターのOKAYAN(オカヤン)とのコラボレーションで何篇かの詩を朗読することになるが楽しみである。彼が詩をどんなふうに解釈して即興演奏するのか、それに小生の朗読がどのように呼応するのか今から楽しみである。ギター文化館という世界に誇るウッド・ドームに詩とオカリナ、ギター、パーカッションの声する物語が紡がれる。時間のある方、ぜひお越しください。
14時30分会場、15時00分開演。
(ヒロ爺)
机から離れようとした途端、電話が鳴った。それで大慌てに椅子に戻るが、腰に電流を充てられたような激痛が走る。何と間の悪い電話なんだと、痛みをこらえて応対に出ると、「大丈夫か?」と息子の声が聞こえてきた。
小生の意識不明で倒れたことをこのブログに読んで連絡をよこしたのであった。変な親子だと思われるかもしれないが、小生の身に多少の変化があっても息子達に連絡することはほとんどしない。命の問題の生じたときには誰かが連絡を取ってくれるだろうし、そうでなければ(自分で身動きが取れるときは)ことが終わってから、○月こんなことがあったよ、と知らせるのが精々である。まさか今日のようにブログを見て電話してくるなど思ってもみなかった。しかし、よく考えてみたら息子はシステム設計などのエンジニアなのだから一日パソコンを相手に仕事をしているのである。軽い遊びは同じ机上のパソコンで楽しんでいる訳だから、父のブログを呼んでいたとしても何の不思議もなく、当然すぎることであったのだ。「何か用か?」と言う前に「やあ、心配して電話くれたのか」と言うべきだったのである。今からでも遅くはないだろう。「息子よ、有難う」
痛めた膝は随分と回復してきたと思ったら、今度は腰である。少し同じ体勢で居て、次に移そうとした途端激痛が走るのである。膝よりもたちの悪い痛みである。これ以上は飛び火するように痛みが移っていかないだろうな、と只々願うばかりである。
(ヒロ爺)
今日は夕方から、つくばカピオへ「白石加代子の百物語シリーズ(銀河鉄道の夜)」を観に行ってきた。ユッキーちゃんが迎えに来てくれ、玄関に置いてある車椅子を持っていこうとしたので、「大丈夫だよ。歩ける」そう言ったのが間違いだった。家の中の短い距離の歩行はかなり大丈夫になったが、屋外はやはり大変であった。もう少しでユッキーちゃんにおんぶされることになってしまった。ユッキーちゃんに「これもね?」と確認されたとき直ぐに首を縦に振るべきだったのである。
六日の舞台では、もともと車椅子の覚悟をしていたが、あわよくば、なんて考えてはいけないことを今日はこっぴどく教えられた。
頑張ることが大事であるが、頑張られるとかえって迷惑になり、本人にもよくないことが、実は意外に多いのである。とにかく素直に「ありがとう」を言って、任せることをしないというのは人間ができていないということを、皆、知っておこうね。
(ヒロ爺)
年を取ると筋肉痛になるのが二、三日ずれてやってくるようになるが、今回の貧血で倒れた後遺症も、日に日にその範囲を広げていくようである。今日は、何とか歩けるようになったのであるが、立ったり座ったりの時の腰に痛みが来出した。全体としては回復に向かっているのであるが、毎日のようになんでこんなところが痛むんだ、という個所が現れるのである。瞬間的な貧血で、一瞬にして意識、筋力を失い無理な崩れ方をし、無防備に庭に打ち落ちたのだから、それを考えれば軽微な怪我と言えるのであるが、毎日痛む箇所が変わっていくのには大弱りである。崩れ落ちた時に舌を噛んで傷をつけたところが未だ回復しないものだから、朗読の稽古ができないで参っている。明日は、無事に声を出せることを願うばかりである。
(ヒロ爺)
今日は6日に向けての最後のリハーサルであった。残念ながら両脇を支えられて漸く歩くことができる状態。昨日よりはだいぶ良いが6日にはピンピンというわけにはいかなだろう。踏ん張って歩いて途中で舞台から落ちるより、些か大げさであるが車椅子で舞台に上がろうかと思っている。
どのようにして打撲・捻挫をしたのか良く分からないのだが、バランスをとるための踏ん張りがきかないのである。ちょっと踏ん張ると、とはいっても無理にではない通常であればなんともないことなのであるが、踏ん張ると激痛が走るのである。何ともしまらない話であるが、そうなのだから仕方がない。
それでリハーサルしながら、ユッキーちゃんに急きょ車椅子押しで登場してね、とお願い。ユッキーちゃんは嫌な顔もしないが、「仕方のないお爺ちゃん」とは思っているであろう。
今日は早々と布団に潜り込もう。
(ヒロ爺)