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常世の風に吹かれて呟いて…

常世の国に迷い込んだヒロ爺が、日々の風に吹かれて呟きを舞う

水道が凍った モーニング珈琲しばしお預け

寒さで朝目覚める。寒暖計をみると部屋の温度は0度を指していた。ヒエーツ!今年一番の寒さだ。熱いコーヒーを淹れて、と思ったら水道管が凍っていて台所に水が出なかった。目覚めてすぐに珈琲を淹れて今日の一日を考えるのであったが、水が出ないのでは仕方がない。こんな時に限って薬缶にも水は入っていない。珈琲が淹れられないとなると、益々珈琲が飲みたくなる。古民家も同然の我が家には、あちこちに水道が通っている訳ではない。台所の水道が凍ったらもうお手上げ状態である。
ムッ、まてよ風呂の水道は出るかもしれない。風呂桶のそばに水道の蛇口がある。残り湯の温もりがあるので凍っていないかもしれない。さっそく風呂に行って蛇口をひねってみる。ジャリジャリと音を立てシャーベットのような水が出てきた。少しでも出さえすれば、後は大丈夫である。さっそくコーヒーメーカーをセットして部屋に戻ると、お猫様が点け忘れた石油ストーブの前で仁王立ちしていてジロリと睨むのであった。ストーブが着いていないのなら炬燵に敷いてあるお猫様用のヒートマットに居ればいいものを。飼い主様を睨みつけるとは何事ぞ。
ボツと火が着き温風が噴き出すと、真ん前にゴロリと横になるのであった。
厳しい寒さは今日までで、明日からは暖かな陽気になるというのだが、本当かな。
(ヒロ爺)
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爺を真ん中に踊る子等の笑顔は春

今日は美浦村へユッキーちゃんと手話を楽しくのワークショップに出かけてきた。ユッキーちゃんの手話を初めてみる子供等、そして手話サークルの人たちはとても身近に、手話という言葉に接してもらえたと思う。気持ちを全身の動作(ゼスチャー)と表情で示せばいいのだという聾者であるユッキーちゃんから直接聞けたことは、手話を学ぶ人も、子供たちもよい経験だったろうと思う。
教室が終わり、縄文の森コンサートに一緒に舞う子供たちと稽古をした。一緒に稽古をするのは三度目になるが、もうすっかりお友達になり、ヒロ爺を優しくいたわる様に、明るい舞を舞ってくれた。今日も大変寒い一日であったが、この爺の周りには春の笑顔が舞っていた。
ユッキーちゃんも子供らと一緒に舞いたい顔であったが、子供らと舞うのはこの爺だけである。6日の公演が楽しみである。美浦村の陸平遺跡に建つ「文化財センター」で午後2時開演で行うのであるが、時間のある人はぜひ来て、観覧いただけたらと思う。入場は無料。
(ヒロ爺)
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お猫様炬燵で大鼾かいてござる

今日は「ふるさと風の会」の月例会であった。久しぶりに全員が集まった。千枚を超す長編歴史物語に挑戦している長兄の打田さんが第三章を持ってきた。三章までで350枚になった。ちょうど3分の1までたどり着いた。家に帰りさっそく読ませてもらったが、よく書けていた。文体も読みやすくなっており、展開も緻密になってきた。完成が待ち遠しい。
朝から出かけることになったので、お猫様の機嫌が麗しくなかった。少し早めにブラッシングと声をかけると、嫌だと言わんばかりに炬燵から出てこない。仕方なく炬燵を消し、お猫様用のホットマットに切り替え出かけたのであったが、帰ってくると、朝からどこに出かけたんだとばかりにうるさく付きまとう。だが、それにかまってやる間もなく、石油を買いに出かけたのであった。買い物を済ませ直ぐに戻ったのであるが、お猫様の機嫌は直らない。炬燵の隅っこにうずくまったまま出てこないのであった。
しかし、小生、これ幸いにと首まで炬燵に埋もれて昼寝と決め込んだ。するとお猫様何時の間には小生の腹のところにぴったりと引っ付いて一緒に寝てござる。しかも大きな鼾をかいているのである。ゴロゴロのどを鳴らすのではなく正真の鼾である。どうやら今日は日当たりがなかった所為か、寒かったようである。明日は、今日よりも早く出かけ、夕方まで戻れないので、お猫様、どんな態度を示すのであろうか。
(ヒロ爺)
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寒波何時まで続く 炬燵が棲家になった

少しお湿りがほしいが、このまま雨模様になると雪になってしまうだろう。雨は嬉しいが雪はちょっと困る。毎日の寒さの所為で、棲家がすっかりと炬燵になってしまった。やるべきことが詰まっているのに、お猫様と二人して炬燵に潜り込んでいる。おかげで今日は、朗読教室を約束していたのであったが、つい忘れ、電話がかかってきて慌てて出かけてきた。何ともしまらないことだ。
30日、日曜日美浦村で、ユッキーちゃんと手話教室を行う。その時に簡単な童話の朗読と手話演技をすることになり、その朗読練習も、怠惰に炬燵に寝転んで行っているのであるが、やはりピリッと来ない。お猫様が、怪訝な顔で顔のそばに寄ってきて朗読の邪魔をする。恐らくただ煩いだけなのであろう。それとも童話の内容が、お猫様の来る一か月前に亡くなったパグ犬の葉津ちゃんをモデルに創作した話なので焼もちでも焼いたのであろうか。しかし、この話、ユッキーちゃんは大好きな話で、子供たちに手話演技を披露するときには、必ずこの話にしようというのである。ユッキーちゃんのために童話も何本か書いているのであるが、何にしようかというと直ぐに「葉津ちゃんの大草原」というのである。さて、30日は、果たして美穂の子供たちはこの話をどのように感じてくれるのだろうか。
(ヒロ爺)
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おめでとうをたくさん作って自分を褒めよう

今日、ギター文化館の木下さんが書いているブログを開いたら、365日達成、とあった。思わず「おめでとう!」と声にした。小生、ヒロ爺も今のところ一日も休みなく書いているが、今日で160日ぐらいだろうか。何回ということをあまり気にしないで、兎に角、毎日書いてやろうと思っている。一日目から、新記録達成「おめでとう!」と自分を褒めている。他人は、一日ぐらいといっても、自分には新記録なのだから精一杯褒めてやることにしている。途切れなければ毎日が新記録である。そう考えると愉快である。
吾がブログの師である木村さんも、小生より15日ほど早くはじめ、本人の記録を毎日更新している。他人と比較して競うのではなく、毎日自分を褒めてやるために続ける。
小生、こんな風に考えている。自分を褒めてやるための材料をできるだけたくさん持とうと。大げさなものでなくていい。自分だけの新記録競技を沢山持てば退屈することはなくなる。お猫様とは雨が降らない限り、毎日9時になるとブラッシングをすることにしている。二、三日それを続けるとお猫様の方が先にそれを習慣化し、小生が9時過ぎてもブラッシングと声をかけないと、うるさく付きまといミューミューと催促する。たまに女房殿が8時半だとかに今日は自分がブラッシングしてやると言っても、お猫様は時間が違う、と巣部屋に潜り込んで出てこようとしない。翌日小生が9時ピッタリに「ブラッシング」と声をかけると機嫌のよいミューの声で飛んでくる。まるで今日の目標達成おめでとう、とでも言っているかのようである。
小生思うのであるが、自分自身にどれだけたくさんの「おめでとう」と言って褒めてやるものを持っているかで幸せ度が違ってくると。
(ヒロ爺)
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信太の海に天女二人舞い降りて

今日は、美浦村へ「縄文の森コンサート」の稽古に行ってきた。柏木さん、ユッキーちゃんの息がぴったりと合うようになってきた。ユッキーちゃんには大先輩となるプロの舞人への物怖じに近いものが未だ抜けない。自分が世界で一番綺麗と思いなさい、といつも言っているのであるが、小生と二人の時やオカリナの野口さん達と舞うときには舞が小さくなることはないのだが、大先輩と思う人の前では、少しでも上手く舞いたいと思う分だけ、スケール感が小さくなる。
ユッキーちゃんのこうした様子を見ていると、生まれて以来、母親・父親・爺婆に始まり、幼稚園・小学校・中学校と何か新しいことを覚えるときには直ぐに上手下手の訳のわからぬ尺度を当てられ、教えられ、それぞれが有している個性という表現のスケール感が削られてしまって、詰まらぬ個性の失せた人間を育ててしまっているかの反省をさせられる。
人が無意識に上手を装おうとする卑猥は、横並びの人間しか作れないことを、声を大にして言わなければならないと、切実に思う。型破り、破天荒、既成を突き破ることこそが明日の夢を紡ぐことであることを、果たしてどれだけの人が理解、もしくは考えているのだろうか。
(ヒロ爺)
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お猫様に一日お付き合い 陽だまりにゴロ 炬燵にゴロゴロ

今日は、特別やることもなく、また何かするのも億劫な日で、一日お猫様に付き合って、というか見倣って縁側の陽だまりにゴロゴロ、陽が陰ってきたら炬燵にゴロゴロして過ごした。夕方散歩にと思ったが、風が冷たく感じ、庭に出ただけで散歩を中止する。何かをやろうかやるまいか、いや明日があるさ、とひねもす怠惰をすることは、腹が満ちている動物には当然の行動なのだ。前にも書いたが、野生の動物は、腹が満腹したら、ひたすらそれを消費しないように寝ているものである。
今日は、お猫様も小生とゴロゴロしている所為か、水も餌もいつもより減らない。
当にお猫様と二人、満足な自然な一日を過ごしたことか。
(ヒロ爺)
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年甲斐もなく時には可愛らしく詩の口ずさむ

昨夜、お猫様を抱いて布団に入っているときに、突然に詩文が浮かんだ。年甲斐もない詩文である。

  「なは愛しきもの」

 名もない花はありません
 あなたが知らないだけなのです
 名もない花の可愛さを
 私が知らないだけなのです

 名もなき草はありません
 あなたが知らないだけなのです
 名もなき草の囁きを
 私が聞けないだけなのです

 名もなきものはありません
 あなたが知らないだけなのです
 名もなきもののいとしさを
 私が知らないだけなのです

読み返してみても、成る程年甲斐もない詩である。もしかしたら、高校生でももうこんな詩を詠まないかもしれない。
(ヒロ爺)
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蠟梅の風に乗って化粧の濃く 過ぎた女の想う

今日も温かかった所為で、散りかけた蠟梅が最後の香を届けてくれた。この蠟梅の匂いを嗅いでいると、蠟梅を便所花と言っていた友を思い出す。今はどこも水洗トイレ(吾が借家はまだお釣りの来るトイレ)になってきたが、汲み取り式トイレ全盛の頃は、消臭花としてよく蠟梅の花が飾ってあった。友の家の母親は、花好きの人で、季節ごとに花が活けてあった。寒い季節、今のように温室花が数あるわけではないので、活けていて長持ちして香りの強い蠟梅は、まさに冬のトイレには華やかさはないけれど最適の花であった。友は、どこかの庭先に蠟梅の花を見ると「白井! 便所花だ!」と必ず大声するのであった。少年の頃の思い出である。
便所花とは関係ないことであるが、梅の香の静かなのと比較すると、やはり蠟梅は化粧の濃い女性を思ってしまう。夏に咲く白粉花は裏路地の酒場女の匂いがする。小生はどういうものか、白粉花の匂いをかぐと、黒岩重吾氏の「脂のしたたり」という小説を思い出してしまう。
花の香には、人それぞれに何らかの物語を持たせてくれる力を持っているようである。
(ヒロ爺)
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夜空に雲の流れ早く夜気の心なしかぬるむ

今日は町内会の班の新年会であった。小さな班なのであるが年に一度ぐらいしか会わない人もいる。今は、町内会などという組織そのものの存在意義も失われてしまっており、市報を配るだけの存在になってしまっている。実際、町内会の存在意義はもうない。市の職員がしなければならないことをやっているだけのことである。小さな班であるが町内会を止める人たちも出てきている。そうしたことで詰まらぬ勝手を言い出し始める。ゴミ出し場の清掃の問題をどうするか等の話が出る。町内会に入らないのだからゴミも出させない、などの冗談めいて言うが本音である。しかし、その問題自体は行政の問題なのであるから、行政に投げ返してやればいいのだ。ゴミ置き場に貸してくれている地主には町内会から地代として謝礼を出している。それもおかしな話なのである。黙って話を聞いていると、脱会者の悪口のような意見しか出てこない。行政を遊ばせておいて、脱会者を責めてどうする。
共同募金を一律の金額に割り当て、各町内会に集めさせるなど、ロクなことにしか機能していないのである。そういうと募金は強制ではありませんと書いてあると市役所は言うであろう。だが実態は強制である。わが班内は、班長が町内会費から全戸分の支払いをしており、各戸に領収書を配っている。こうしたことに何の疑問も持たないで、脱会者のゴミの問題だけを口にする。これでは、自分たちの住んでいる町を良くすることは出来ませんね。
新年会では毎年こんなことを思い、もう十二年にもなる。実に思考の発展のないことである。
(ヒロ爺)
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気の所為か 春がちょこっと近づいてきた

昨日の大寒が終わったので、今日は何となく少し春が近づいてきたように思ったが、全くの勝手な期待であった。
風は冷たかった。その証拠に、お猫様に「ブラッシングするよ」と声をかけても聞こえぬふりをしていた。外は寒いのが判っているから、聞こえぬ振りをしているのである。実に憎たらしい知恵者である。そのくせ、こちらが今日は寒いからブラッシングに外に出るのは嫌がるだろうと、気を利かせて止めにすると、「まだブラッシングしていないよ」と催促するのである。
お猫様と一日の大半を過ごし、観察をしていると、実に人間社会の身勝手な縮図を見せてくれる。お犬様とは全く違う狡さは、まさしく人間社会である。お犬様は、群れとしての狡さはあるが、個人的狡さはない。犬社会では個人的狡さを見せると、群れを追われ生きていくことは出来なくなるからである。
もともとは犬好きの小生ではあったであるが、お猫様も一緒に暮らしてみると、楽しさ煩わしさは出方が少し違うが基本的には同じである。おそらくお猫様もお犬様も小生と同様に思っているのであろう。
今日は、3月6日にギター文化館でオカリナの野口さんと行う「里山と風の声コンサート」のための6つの詩を整理し、チケットが出来上がっているというのでギター文化館へ出かけてきた。木下代表と久しぶりに「二糖会(二人の糖尿病会…と小生が勝手に称している)」の話をしてきた。風邪をひくと、インスリンの注射の効果が弱まり血糖値が上昇する。暮れから木下さんが風邪をひいており、それを小生が譲ってもらったものだから、二人して血糖値がいつもより高値安定となっている。何とも爺臭い話になってしまった。しかし、70歳などずっと先のことと思っていたらもう目の前であることに気づき、二人で大きくため息をすることとなった。
(ヒロ爺)
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大寒の抜けて明日からは寒の緩みのみえるかと蕗の薹に聞く

縁側に差し込む日をガラス越しに受けていると、実にうらうらと春を感じさせてくれる。午後の三時近くになり、風が強まってきたので、洗濯物を取り込もうと庭に出たら風の何と冷たいことか。今日が大寒であることを思い知らされた。日差しは照りつけていたのであるが、庭の霜柱は解けていなかった。日の当たらない隅には、先日降った雪がまだ解けないで残っている。もう少し芽の膨らんで来たら、今度は蕗味噌を作って褒めようと思って楽しみに残してある蕗の薹は一向に大きくなっていない。この寒さでは当然であろう。ガラス越しにお猫様がこちらを見ているので、窓を開け呼ぶと、抱っこされてきたが、突然吹いてきた風の余りの冷たさに体を緊張させて、爪を立てしがみついてきた。そして、ミューと一声鳴き中へ入れ、と小生を威嚇した。
明日からは少しは寒さも緩むのだろうか。
(ヒロ爺)
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乙女らよ常世の空に高く舞え

今日は、美浦村へ縄文の舞の稽古に出かけてきた。舞のスケール感はまだまだであるが、とても面白い感じに仕上がってきている。小林には言葉を手話という動作の言語に舞えと指示してある。モダンダンスの柏木さんには、言葉の持つ音を流れにして舞うように話した。動作の言語の舞に、言葉の有している音を舞という流れに表し、二人の舞の流れに乗ってオカリナを中心としたメロディーとパーカッションがリズムを刻み朗読が謡う。実に楽しみな舞台が創れそうである。
(ヒロ爺)
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凍風の蠟梅に吹きて厚化粧の香のこごえて

「蠟梅の香に過ぎた女子の後ろ姿思ふ」かつてこんな詩を詠んだことがあった。若さの勢いのあったころは蠟梅の香の強さには余り気にかけることもなかった。しかし、今は蠟梅の香に狼狽する。あまりに濃密に感じすぎてしまうからだ。夕方少し前に近所を歩いていたら、庭に蠟梅が咲いていた。もう終わりかけているものであったが、その香は弱ってはいるが強いものであった。強い香に離れながら、ふと思った。バーだとかクラブに足を踏み入れなくなってどのぐらいになるのだろうか。糖尿病が発見されて間もなくアルコールを止めたのであったが、そのあたりから出入りをしなくなった。だからもう二十年以上になる。タバコはやめる気もなく日に二箱以上、吸い続けていたが、三年前にやめた。朗読の時に息切れがしないようにとの思いからだった。糖尿病でカロリー制限をし、酒を止め、タバコも止め、嗜好品をすべて取り上げられて何の楽しみもなくなったのかというとそうでもない。口にはしない嗜好物が次々現れるものである。人間とは実に欲深い動物であろうかとしみじみと思う。
(ヒロ爺)
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霜の上に雑草の生きておる

雪の朝よりも、雪の晴れた翌朝の方が冷え込みが激しい。今朝の寒さは大層なものだった。古民家のような我が家の朝の気温は、1度であった。外と変わりない。新聞を取りに外へ出て、庭を一回りしたら、雪解けの水を含んだ土には10センチにもなろうかという霜柱が立っていた。その霜柱の上に小さく緑々を鮮やかに陽を映して雑草が生きていた。何とたくましいことかと脅威を感じた。
今夜も早くから冷え込みが大きいようである。お猫様が、炬燵から出てこようとしない。膝がスウスウ寒いので抱っこされに来てくれると嬉しいのだが、でてくる気配はない。
(ヒロ爺)
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雪化粧に子等の舞はダイヤモンドダストになった

朝起きてびっくりだった。昨夜の感じだと薄っすら雪化粧になるかな、程度に思っていたのだが庭に出てびっくりであった。10センチ、いや20センチは積もっていた。サンダルで郵便受けに新聞を取りに行くこともできなかった。
今日は、美浦村の陸平遺跡の文化財センターで、縄文の森コンサートで演じる縄文の舞の、初舞合わせであった。小生と子供達とは今日は二度目なので、少し遠慮が取れてきて、大きな動きが取れるようになってきた。オカリナの野口さんの伴奏に嬉々とした表情がうかがえた。
ユッキーちゃん、柏木久美子さん、野口さん、恵子さんとの初合わせは上々であった。お互いの感性の確認が取れたので、これで十分である。後は、それぞれが自分のパートに自分の表現を出してもらえれば、これまでにない表現舞台が出来上がるだろう。
ユッキーちゃんには言葉を舞いにし、柏木さんには言葉の裡を舞いにしてもらえれば、二人の舞の上を野口さん、恵子さんの風が吹いて流れればgoodである。
本番が楽しみな舞台である。
(ヒロ爺)
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あばたの月えくぼの月 心もよう

今夜は月は見えない。少し前に霙混じりの小雨が降っていたが、今は霧雨のようである。今夜は雪が少し降るかもしれない。凍える霧雨の中、空を見上げていると、月の気配は全くないのであるが、厚い雪雲の向こうであばたの月かな、えくぼの月かなと思ってしまった。
明日は、ユッキーちゃんと美浦村に出かけ、子供たちと一緒に稽古を行う。ユッキーちゃんが子供たちと顔を合わすのは明日が初日である。午前中に、オカリナの野口さんの音楽教室があり、午後から最初の舞合わせである。
野口さんが柏木さんの舞を見てどんな曲を即興で吹くのか楽しみである。
雪が気になり何度か外に出てみる小生を気にしてお猫様がべったりとくっついて離れない。何処かに出かけるとでも思っているのだろうか。抱き上げて頬ずりしてやると満足そうにごろごろ喉を鳴らし、小生の方にしがみついている。
明日の稽古を楽しみに今夜は早く床に入るとしよう。とはいえ、9時ではちょっと早すぎる。2時頃に目が覚めたら寝付けなくなってしまう。
(ヒロ爺)
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独りとぼとぼ風もとぼとぼ

人はとぼとぼとひとり歩くことはあるが、風にとぼとぼと表現するのはこちらの情態がよほど行き暮れているときであろうと思うのであるが、今日はむしろハイに気分が良い。ハイになり過ぎている訳ではないし、いたって平常である。これはおそらく、6月の定期公演に向けての朗読舞の台本のメモ書きの恋歌を大量に書いているからだろう。恋慕の裡に巣食うであろう言葉を、それこそ脈絡なく書き連ねているために、突然に「独りとぼとぼ風もとぼとぼ」などという言葉が思い浮かんだのであろう。確か以前にこの言葉の前か後ろに何かの言葉を接続して一行詩に詠んだことがあったが、今はどんな詩であったか思い出せない。
6月公演のための脚本のテーマは未だ手探り状態なのではあるが、できれば常世の海(霞ケ浦)をテーマに、縄文人が営んでいたであろう常世の国での暮らし方のようなことを恋物語に込めて書きたいと思っている。
小生が、霞ケ浦を題材にして最初に描いた物語が「霞ケ浦の赤い鯨」であった。古代の霞ケ浦には回遊してきたであろう鯨を想って、夕日の中霞ケ浦の鯨が空に舞い飛び、夕日に紅く染まって筑波山をぐるっと一回りして霞ケ浦に帰るという話なのであるが、この感覚を大事に、恋の舞物語を書きたいと思っている。しかし、3月末の締め切りなので、まだどうなるかは分からない。だが、自分のことでありながら、ちょっと楽しみにしている。
(ヒロ爺)
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寒椿の花に今年の恋を占う

朝、寒さに凍えながら雨戸をあけ庭に出た。霜柱が一面に伸び立っているのを踏み潰して歩いた。ザクザクという踏みつける音がたまらなく気持ちがいい。庭の隅に、一本の八重の椿が植えられており、ピンクの花を元気につけている。こんなに寒いのに凍りもせず美しく花開いている。もしかしたら凍っているかもしれないと、指で触ってみたら、ふわっとピンク色と同じに優しい柔らかさが指に伝わってきた。思わず「霜焼にもならずよく元気に。若いって良いな」と声をかけてしまった。
小生、ユッキーちゃんに常世の国の恋物語を百話書いてあげます、と約束しているのであるが、まだ26話しか出来上がっていない。ことば座を立ち上げるときに、10年は元気に頑張るから、その間に自分の舞を確りと確立させなさい、と言い渡してあるのだが今年はその半分を使うことになる。ちょっと急がないと百話の恋物語を書き上げるのは難しくなりそうである。
椿の花に思わず若いって良いな、と声にしてしまったのは未だ26話だ、という思いがあったのかもしれない。今年は、この椿の木にならって満開の恋花を咲かせ、10話ぐらいの恋物語を書きたいものである。
(ヒロ爺)
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二人の天女に吾が目じりの下がる

今日は、ユッキーちゃんとモダンダンスの柏木さんの初めての稽古であった。本番の楽しみな二人の顔合わせである。柏木さんの舞のイメージングのために、今日はユッキーちゃんの舞を見てもらった。ユッキーちゃん聊か緊張気味であったが、ゆっくり大きく舞うようにと言ってあったので、まだ十分とは言えないが大きく舞うことができた。ユッキーちゃんには柏木さんから、もう粗方出来上がっているではないですか、の評を貰っていた。
柏木さんには、ユッキーちゃんが音楽という概念の体感のないことを理解してもらうことが、本日のテーマであったので、ユッキーちゃんの舞を見てもらいながら、そんな話をした。小生の朗読は、ユッキーちゃんの舞の中から音楽を聞き出して、それを感情のBGMとして朗読を構成していくのである。
そんなあらましを認識してもらうことは出来たと思う。柏木さんより、詩の中でどこかに間を入れてもらい、ユッキーちゃんと二人で、即興の舞を舞ってみたいという提案があり、次の稽古ではそれをやってみようと思う。
オカリナの野口さんと初めて舞った時もそうであったが、感性が通じ合えるというのは実に嬉しく、楽しいものである。小生の頭の中には、もう先の物語が沸々とし始めている。楽しい一日であった。ごく近い将来には、世界初の常世の舞物語を演じてやろうと、久々に意欲の生まれた日であった。
帰りの車の中でユッキーちゃんは、しきりにどうだったかを聞いていた。ユッキーちゃんも楽しかったようだ。
(ヒロ爺)
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甘ったれお猫さん君の名はボーイ?

今日は刷り上がったというギター文化館のポスター、チラシを受け取り、玉造の方に持って行った。風の会の会報を置いていただいている玉造のお店で、甘ったれによくお喋りする黒猫にあった。大きな猫であった。まだ生後8か月なのだという。この黒ネコちゃんが、寄ってきてひっきりなしにミューミューとお喋りするのである。
我が家のお猫様耳ちゃんの子供にボーイというお猫様がいた。三年の寿命であったが、このボーイちゃんが甘ったれで超お喋りなお猫であった。8か月ぐらいまで耳ちゃんのおっぱいをしゃぶっていたのである。耳ちゃんの倍もある体なのであるが、耳ちゃんは嫌がりもせずおっぱいをしゃぶらせていた。小生がもう止めなさいと何度叱っても、小生の目を偸み、耳ちゃんのおっぱいをおねだりするのであった。普通母猫も叱りつけ乳離れをさすのであるが、拒否しないのである。ボーイが普通食をとるようになってすぐに耳ちゃんに避妊手術を施したのであったが、その所為なんてことはない筈だが、耳ちゃんは全く授乳を拒否しないのである。
そのボーイが実によくお喋りをするのだった。仕事をする小生の膝に座り、パソコンに向かってミューミューとお喋りするのだった。そのボーイに全く同じによくお喋りをする黒猫様であった。誰かが返事をするまでミャーミャーと鳴き呼ぶのであった。小生思わず「ボーイ」と呼びそうになった。
我がお猫様は今、小生の膝に丸まって寝ている。
(ヒロ爺)
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新成人達よかつて新人類と呼ばれた新成人が居たことを知っているかい

今日は成人の日。新成人について、物知り顔の旧(かつての)成人たちがいろいろと物申している。だが、そんな声に耳を貸してはいけない。旧人達に耳を貸していたら、新しいことが生まれなくなる。進歩がなくなるということだ。
…と、こんな判り切ったことをしたり顔で言ってみる小生もろくな者じゃないな。
世代交代というのはおよそ20~25年ぐらいの間隔で巡っているようである。そう思って振り返ってみると、25年ほど前に、新人類のタイトルで「新人類をいかに社会に軟着陸させるか」といったテーマの教育映画の脚本を書かされたことがあった。もしかすると、その新人類と呼ばれた世代の子供達が今の新成人なのかもしれない。そういう意味では、今大きく世代が交代し始めているのかもしれない。今年の成人たちは、バブルな経済を全く知らない世代である。新人類の時は、バブルの絶頂期に売り手市場の中の就職で、就活なんて言葉はなかった。
小生の就職時は昭和の40年ごろであるから、高度成長まっしぐらであったと思う。
デフレ世代の子供たちが成人するころはどんな時代になっているのであろうか。小生あわよくばそれを見ることができるかもしれないが、見ることができたら実に愉快なことであろうと思う。
今日、何気なくテレビをつけたら、とてもいい言葉を耳にした。もう番組が最後のほうだったので中身のことはよくわからないが、こういう言葉であった。ある企業の経営責任者の話であったと思うが、「当社はみんなが賛成する経営企画案は時代遅れと考えている」というようなことを言っていた。不況と言われている中で伸びている会社はやはり違うなと思った。
小生達の脚本や文芸などの世界では、新人賞というのは既成を打ち破る強さが問われる。いわば型破りが必要なのである。世代の交代というのは、いわば既成の破壊、型破りによって始まるのだ。コンセンサスなんて糞喰らえの精神で、新しい世代を作り上げていってほしいものである。その前に、この小生ももう一破りを頑張らなくては。
(ヒロ爺)
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バブルを知らない子供等の成人式

錯覚金持ちのバブルが崩壊したのは1992年。今年成人式を迎える若者達は、バブル経済ということを全く知らない若者達である。幼稚園にも行ってない幼児にお年玉を1万円も出す、貰うというバカげた狂乱を全く知らない世代である。ところがこの若者たちの親はと言えば、、なに又すぐに景気が回復してインフレ経済になるから、こんなローンなんかどうってことないさと、と今がマイホームのチャンスと子供が生まれたのを機に住宅ローンを抱えた世代である。嬉しいも悲しいも時のムードに引きずられて踊らされてきた世代である。
今朝のTV番組で、成人になる若者たちのある実態を放送していた。親の脳天気な期待と落胆の落差の激しい暮らしぶりの現実を冷静に観察してきたのであろうか、実にクールに自分とその人生を見つめていた。それを夢を描けない世代だとか、覇気のない世代だとか、或いはさめ過ぎた世代だとかの解説をつけている者達はと言えば絵に描いた餅を夢と勘違いしている。
小さくまとまって自分を作り上げてしまっている若者、絵に描いた餅を夢だと錯覚している愚かな中高年。いずれにもため息をついてしまうのは、この爺だけなのだろうか。
(ヒロ爺)
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閑を偸むために益々の多忙を積み上げる

今日は風の会の会報「ふるさと風」の印刷、製本を行ったので一息つけるかなと思ったら、実に次々とやらねばならないことが後ろから追いかけてくる。面倒臭くなって放って置いても構わないではないかというとそうではないのだ。責任の尻をこっちに持ってこられ、止める処理をさせられることになる。それでは叶わないので、仕方なく処理をすると、これ幸いにと次々にやることを持ち込んでくる。頼まれるうちが花ということも言われるが、そんな花なら直ぐに萎んでも構わない。
現役の第一線でモンスターと呼ばれるほどに仕事をこなしていたときのほうが自分の時間があったというのは、一体どうなっているのだと大声を出したくなる。こうなると孫でも呼びつけて、彼はもう好々爺になりきって何かを頼んでも無理だと言わせるほうがいいのかもしれない。松の内が明けたばかりだというのに何ということだと今夜は早々にふて寝と決め込もう。
(ヒロ爺)
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庭に顔だした蕗の薹 味噌汁に春が来た

先日見つけた庭の蕗の薹、今日は七草粥なので摘んできて、刻んで味噌汁に入れて春を楽しんだ。今日は寒い一日であったが、熱い味噌汁に刻み葱風に浮かべてそのほろ苦い味を褒めたら、春の香が寒さを吹き飛ばしてくれた。しかし、お猫様は、一日炬燵から出てこない。夕方、ミャーと呼んだので何かと思ったら、エサ入れが空っぽだよという催促だった。
(ヒロ爺)
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強風にお猫様ブラッシングは止めだと言う

今朝目を覚ましたら、時計の針が9時半をさしていた。びっくりである。何時もだと朝6時になるとお猫様が起こしに来るのであるが、今朝はどうしたわけか起こしに来なかった。昨夜は遅くまで原稿を書いていたわけではなく、むしろ何時もより早く寝たのであった。明け方の寒さが緩かったのだろうか。
朝昼兼用のような朝食を済ませ、11時ごろになってお猫様にブラッシングに行こうと声をかけたがやってこない。急に風が強く吹き出した所為である。雨降り、強風になると我がお猫様は外に出たがらないのである。それで今日はブラッシングをするのを止めた。
午後ギター文化館に新年の顔出しに出かけてきた。そうしたら富良野のような景色である嘉良寿理の台地近くに来たらまっ黄色の砂塵の塊が飛んできてビシビシッとフロントガラスに打ち付けてきた。ちょうど今は畑には何も植わっていない時期なので、ちょっと強風が吹くと砂塵がすごいのである。嘉良寿理の交差点あたりから見る朝もやの煙る風景は絶景なのであるが、畑に緑がなく強風に吹かれたら、景色に見とれているなんて状況ではない。途中道路工事の人たちがいたが、さぞかし大変であろうと同情してしまった。
今週土曜日は、ふるさと風の会の会報を印刷しなければならない。ただいま必死に編集作業をしている。外は相変わらず断続的に強風が吹きつけて雨戸をガタガタいわせている。
(ヒロ爺)
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枯草の景に蕗の薹のちょこんと頭を出した

年の明けてからは、毎朝しっかりと霜の降りて霜柱の高く伸びている。昨日は野良猫てんてんが小生の長く使っていた椅子の座布団を敷いたスチロールの仮小屋で天寿を全うしていたのであるが、他に何ぞ異変はないかと庭の隅を見て回った。霜柱が解けて、サンダルの底に泥がこんもりとくっついてきた。
枯れた雑草を棒切れで掻き分けたら未だ小さいが蕗の薹がちょこんと顔を出した。もう少ししたら、そうだ七草には摘んできて味噌汁に刻み込み、春の声を聴こう。
さっき、友人の木村さんのブログを見たら、旧八郷町・貉内の長楽寺のことが出ていた。もう一昨年の暮れの定期公演で愛宕山(岩間山)の十三天狗を題材にした舞物語を書き演じたことを思い出した。愛宕山の十三番目の天狗は貉内・長楽寺の坊さんがなったと伝え話に残されてある。この伝え話を読みそのまま物語にしても詰まらないし、ユッキーちゃんの舞う恋物語にはならない。それで、本当は十三番目の天狗になるはずの人物がいたことして物語を作ったのであった。岩間山の十三番目の天狗になるはずであった大鷹坊という修験者がいたのであったが、病を治してやった娘の恋の策略にはまり婿に入ったという、他愛もない話である。まあ、物語とは筋の概略を話すと何でも単純で他愛もない話になるのであるが…ユッキーちゃんにきれいな舞を演じさせるための仕掛けはちゃんと作ったつもりである。
木村さんは、1300年の歴史の里石岡というHPを開いておられ、ブログ「まほらにふく風に乗って」にもこの歴史の里の話をずっと書いておられる。小生のように行き当たりばったりではなく、歴史、伝え話などにまつわる資料を調べて書いておられる。劇団の話をするためにブログでも始めたらいいのですが…しかし、ちょっと億劫。そう言っている間に、テストにとブログを開設し、小生にその方法を指導くださった。
始めは、まあボツボツとと思っていたのであるが、ギター文化館の木下代表が365日一日も休まずに挑戦し、もう少しで365日だといわれ、木村さんもボツボツと言っておられたのとは裏腹に毎日休みなく、しかも、歴史を調べながら書いておられる。行き当たりばったりの小生は些か気遅れ気味である。
でも、まあブログとは呟きであるから、めげずにとにかく毎日ネ、と続けるしかあるまい。
(ヒロ爺)
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百日紅今年も真紅の花ひらけ

今朝、10時頃、お猫様のブラッシングをしながら、時々やってくる野良猫の「てんてん」のためにスチロールの箱で雨露のしのげる小部屋を作って置いてあるのだが、その小部屋に野良殿がまだ寝ているのを見ていた。しかし、ブラッシングを終えても全く動く気配もなく寝ているので、おかしいなと近づいたところ、死んでいた。二、三日前随分弱っているなと思ったのであるが、やはり寿命が尽きたのであった。
我がお猫様が唯一庭にやってきても怒らなかった猫である。鼻の頭に小さく点がついたように黒くなっていたので「てんてん」と呼んでいたのであった。子猫の時から来ていたので、二歳半の年齢であることは知っている。夭折といえば夭折なのであろう。
小生は、野良猫に餌をやることは決してしない。動物愛護ぶって餌だけやる人が大勢いるが、餌を与えればまた野良猫が増えるのである。人の身勝手、無責任な増繁殖である。野良猫を可哀そうだと餌をやるのであれば、きちんと飼ってやらなければならないのだ。
我が家のお猫様も、野良ではなかったのであろうが迷い込んできた猫である。愛犬が死んで一か月後のことだったので、何かの縁と家族にしたのである。家族としたのだから、きちんと避妊手術をし、ワクチンを打ち、毎日ブラッシングをしてやる。また月に一度はシャンプーをしてやる。
野良猫を可哀そうと餌だけを与える者は最低の偽善な奴だと小生は思っている。
昨年春に、庭に野良猫が死んでいた。それで百日紅の木の根元に埋めてやったら、真っ赤な百日紅の花が咲いた。それまではピンクに近い色であったのだが、真っ赤な花になったのである。
それで「てんてん」をまた百日紅の根元に埋めてやった。今年もまた真っ赤な百日紅の花が咲くだろうと思っている。
野良猫、野良犬が可哀そうだと思うのであれば、決して餌を与えてはいけない。餌を与えるのであれば、責任を持って家で飼ってやることである。人の勝手に家猫、家犬にさせられ、人の社会の中でしか暮らせなくしてしまったのは人間なのだから、餌だけ与えれば餓死しないだろうなんて考える奴は許せぬ悪党だ。人に飼われない限り彼らには幸せの生はないのだから、餓死するのならばそのほうが自然で、彼らは自然の幸せに帰ることができるのだ。
(ヒロ爺)
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正月三日今年もまだまだ残っている

正月もまだ三日だというのに、師走の大晦日まではまだまだ先が長いなと思ってしまった。ブログを書き始めて今日で139日目になる。特別なテーマを決めず、取り留めもない日日の呟きを書くのであれば、まあそれ程負荷も感じることなく書いていけるだろう。それに時々はユッキーちゃんに何かを書いてもらえばいいだろうと安易に思っていたのであるが、これはなかなか大変なことである。ギター文化館代表の木下さんが、とにかく休みなく一年間書き続けることを目標として、もう少しで365日になると少し前に言っていたが、365日書き続けるというのは大変なことである。文章を書くことが商売である小生ではあるが、書くのが嫌になる。きっちりテーマを立てて書いていかないと途中で脱落すると誰かに言われたが、仕事ならばそれも必要だろうが、無責任な呟きなんだから構えることはない、と高をくくっていたがドッコイである。
もしかしたら、明日あたり、「もう嫌だ! 止めた!」と放り投げそうな気もする。毎日何かしら書き続けるというのはそれぐらい大変なことだ。売文屋がそう思ってしまうのだから、中身は何でも毎日書き続けている人には大いなる敬意を払いたい。そう、日記帳なら「本日何もなし」で済ませるのであるが、読まれないかもしれないが読む人もいるかもしれないと思うと責任は感じないが「何もなし」というわけにはいかない。
時々、人のブログを開いてみると、何日も更新のないものが沢山ある。わざわざ開いたのに前と同じだとがっかりする。勝手に開いておきながら、手間賃をよこせ! と声を上げたくなる。だから、…そう、半分ぐらい仕方ないの気分で書いてしまう。そして今日のように、ダラダラ愚痴ってみることになる。
今日は、そうです、自分の仕事がうまく進まないので、八つ当たりしているのです。
(ヒロ爺)
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初夢は見なかった幸運はないのかと風に聞く

昨夜はあまりにもぐっすりと安眠した所為なのか、初夢を見なかった。今年は、というか今年も幸運は吾が頭上には降りてこないのだろうかと思ってしまった。しかし、記憶に残るような夢を見ないぐらい安静なる眠りを得たのだから運がどうだこうだと文句の言えるものではない。
さて、正月というのは、一年の最初の月、即ち1月を意味するものである。何故1月のことを正というのかは知らない。調べてみようという気も起らないところを見ると、小生にとって正月そのものが意味するものはないようである。こうした感覚というのは、どうやら両親の影響のようである。小生の父親は医者ではあったが、牧師でもあり、物心ついた時からクリスマスの印象は強くあるのだが、正月の印象が非常に薄いのである。
お正月の飾りつけである門松や鏡餅なんてものがなかったし、当然お年玉なんてものも貰ったことはなかった。それでも常識的な日常を体験させる意味もあったのだろうか、正月料理だけはちゃんと作られてあった。だから正月というのはただ美味いものが食卓に並ぶ日なのだと認識していたのである。お祝い気分やめでたい気分というものはなく、正月に神社仏閣に詣でる感覚も養われなかった。もちろん教会では正月礼拝はあったが普段の日曜礼拝と変わるものではなかった。
そんなことも影響しているのだろうか。小生、縁起といわれる初夢の実感がないのである。そう考えると、皆が浮かれ気分となるときに、浮かれ気分になれないのは、ちょっと勿体無いことだと思う。
まあ、年の明けて最初に見る夢を初夢というのだから、今夜こそは幸運の夢を見たいものである。
(ヒロ爺)
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ヒロ爺

Author:ヒロ爺
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ヒロ爺は、映画・演劇の脚本・演出を生業としておりましたが、日本シナリオ作家協会を退会し、何もやらない何もしない暮らしを始め、周囲の顰蹙を買っています。しかし、何もやらない何もしない暮らしは、その才能と精神力がないとできないことを知り、改めて己を天才(天災)かも知れないと思っている所謂呆け老人です。

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