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常世の風に吹かれて呟いて…

常世の国に迷い込んだヒロ爺が、日々の風に吹かれて呟きを舞う

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あと少しで今年が暮れて、寒中に朝日を待つ

もう少しで今年が死暮れて、寒波の中に朝日を待つこととなる。もし明けの空が晴れているのであれば、龍神山をはじめ愛宕山、難台山などに上り、霞ケ浦を見張っていると、寒気を裂くように赤い絨毯が足元まで一直線に敷かれる。それを見たものは、きっとこう感じる。常世の国とはこの国に違いないと。
今夜は、北風が強く吹いている。どこかの寺につく除夜の鐘の声が聞こえてくるだろうか。
(ヒロ爺)
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寒い一日 今年もあと一日

「この道どこまで続くと青の空に聞く 死暮るるまでと風の言ふ」
ユッキーちゃんに出会って「朗読舞」なる新しい舞台表現を創出した。そして、劇団を創設し二人で歩き始めた。ユッキーちゃんの手話を舞いに創りあげた表現に共感し、一緒に舞台を創ろうと参加してもらえる各ジャンルの表現者も現れ益々に楽しみとなっては来たのであるが、自分自身を振り返るとき、「俺は何時まで、何処まで歩けばいいのだ?」と思ってしまうことがある。
「雑木林に迷い込んでも戻り道の探すなと風の言ふ」
いったん進むべき道を決めたら、一つの結論の出るまでは迷おうがどうしようが兎にも角にも前に進むしかないだろう。そして、どうせ前に進まなければならないのなら、精々大きな夢を描いて進むが良いだろう。
今年もあと一日となった。無事一年の終われそうである。
(ヒロ爺)
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年の暮れおし迫り言葉の頭を空回り

もう今年もあと二日。しかし、その事には何の感傷も感情も持っていない。ただこの数日困っているのは、頭の中に大事な言葉が滑って空回りしていることである。12月に入り、突然に来年の新しい希望が生まれ、それに向かって新しい舞台への脚本の構成にかかったのであるが、急激に膨らんでくる希望の夢が大きくなりすぎて、そこに必要となる確かな言葉、すなわち形容詞が風や水の流れをとらえきれず勝手に揺れ、滑ってしまっているのである。まだ若かったときには良くこのような情態になったことがあったが、今ではそういうことが全くなく、突然にやってきたので少々戸惑っている。
それで、私もまだ若いなあ~。まだまだ大きな伸び代があるということか、と都合の良い方向に思っている。
変な話であるが、今、明日の小生の頭はどんな感じになっているのだろうかと楽しみに思っている。
(ヒロ爺)
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里山の風が風邪をもってやって来た

昨夜から風邪気味である。どうやらギター文化館の木下代表から移されたらしい。日曜夜の忘年会で、昨日昼に本年終了の挨拶に行って、彼の咳を浴びせられた所為であろう。昨夜寝る前にネギをみじん切りして、ブイヨンスープにたっぷりと入れて飲み、そのあとに生姜湯を飲んで寝たところ、今朝はすっかり風邪っ気がなくなっていた。しめしめと思っていたら、午後からまたのどがムズムズし始めた。夕食前に血糖値を測ったら、かなり高かった。どうやら風邪の影響が出てきたようである。小生、もう20年来の糖尿病もちで、数年前からインスリン注射による血糖値のコントロールを行っている。ところが風邪をひくと、インスリン注射をしていても血糖値は下がらず、高値安定(?)となってしまう。血糖値を下げる薬、糖分吸収を抑える薬など幾つかの薬を服用しているので、不用意に買い薬を飲むわけにはいかない。今夜も、これからネギスープを作り飲まなくては。小生は、どういうわけか、風邪をひき始めたらこのネギスープを飲むと風が悪化しないのである。チンパンジーに長ネギを与えていると風邪をひかないのだそうだ。それを聞いて以来、ネギスープを飲んで風邪ひきを回避してきたのである。実際、このネギスープを飲むと風邪が進行せず治ってしまうのだから不思議である。だまされたと思って試されることをお勧めする。
(ヒロ爺)
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雑木林の打たれて風の舞を捨て

ギター文化館に本年の終わりの挨拶に出かけ、帰りにいつもと違う道を通ってきた。以前によく自転車で散歩して回った場所であるが、途中どうも風の流れ方が変わったように感じながら車を進めていたら、雑木林が突然になくなっていた。整地して宅地にでもするのであろうか。雑木林のなくなって荒れ地のようになっている様子を車を止めて眺めていたら、風が舞を捨てたかのようにまっすぐに冷たく走っていた。自然の野原には風は大急ぎに走っても必ず舞を見せながら去っていくのであるが、人口に造られた平地には風は舞うこともなく、…そう、振り返ることをしないでサッサと行ってしまう。雑木林を造成し何かを造ることはある何かの必然はあるのだが、その必然に夢がないと風はそこに遊ぶことなくサッサと過ぎて行ってしまうのかもしれない。どんな目的、どんな必然で雑木林が打たれたのかは判らないが、何かの必然がそこに造られた時、そこに風が舞い寄ってくれるものであればいいなと思った。
(ヒロ爺)
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筑波嶺の吹き下ろす風の凍って静かに澄んで

今夜はギター文化館の忘年会につくばねオートキャンプ場近くにあるつくば園まで出かけてきた。筑波山から吹き降ろす夜気は冷たく、痛いほどであったが肺に吸い込まれる冷気は疲れた心を洗う霊力を持っているかに感じられた。忘年会と称し今年の垢を洗い流し明日の希望を思うには実によい場所であった。
糖尿病と判ってからは、浴びるように飲んでいたアルコールも口にすることを止めたので、終わった一年に手を振るにはこのような場所での集まりは嬉しい。
熱い烏龍茶をすすりながら、来年に演じてみたい舞い物語の構想を暗闇の冷気に問うてみたが、まだ返事はなかった。しかし、忘年会ならぬ望年会としては愉快な山の冷気であった。
(ヒロ爺)
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行き暮れて凍風の吹く 雑木林の歩む

クリスマスである。今年ももう残すところ六日となった。風は漸く冬の風になり、日本海側では大雪となっている。今年を振り返れば、新しい発見や新しい展開が始まり、大層に充実した年であったといえる。しかし、吾が裡をみるとここ数年というものズーッと行き暮れた感情のままである。今ではもうこの行き暮れた情態を楽しもうという余裕すら生まれ始めている。それが良いことなのかそうではないのかはわからないが、行き暮れた情態でも雑木林の歩むことを止めるわけにはいかない。
雑木林を抜ける木枯らしに行き暮れた心をあずけ、運ばれて。
今、残り少なくなったこの年のうちに、長編の詩物語の構想を固めなくてはと思っているのであるが、行き暮れた情態であるにもかかわらず、恋の形容詞が思い浮かばず紡ぐことがかなわぬ状態にいる。行き暮れ方がまだまだ小さいということなのだろうか。
「今夜も妹の姿みえず」こんな詩を詠ったのは何時のことだったろうか。
(ヒロ爺)

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今夜は夜空に星はなく雲間に月光のこぼれ

昨夜に比べ今夜は随分と冷え込んできている。さぞかし夜空には星が広がって瞬いているだろうと思って庭に出たら星はなくただ寒いだけだった。それでこんな詩を思い出した。

 今 あなたを信じなかったら
 私は何を信じたらいいのですか
 あなたは私に
  「未来を信じなさい」
  「夢を信じなさい」
  「願いを信じなさい」
 と仰いました
 だから私は
   今あなたを信じている私を
   信じているのです
 私の思いをかなえるために

そうか、今夜はクリスマス・イヴだったのだ。意味もなく夢を描いてワクワクすることを忘れたらいかんな。クリスマス・イヴの夜には新しい恋を想って電話の前に膝を抱えて待つぐらいでなけりゃ。
「あなたからきっと電話が来る」と信じて…。
(ヒロ爺) 
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あばたの月 えくぼの月 心もよう

明けの真っ赤な月にであい、皆既月食は見られなかったが、次の夜には冴えわたる笑顔の月にであった。この数日月の表情がとても美しく笑顔していたように思う。
 「月までも妹の笑顔して」
 「満月 妹の笑顔を映している」
 「月にきみの笑顔きく」
澄んだ夜空に明るすぎる光を放つ月を見て、自分の心を映してみた詩をこれまで随分とたくさん詠んできた。しかし、どれだけたくさんの歌を詠もうと、時々の月をすべて詠い切ることは出来ない。365日×年齢の数だけ、自分の月がある。月には地球上の生物の数×365日という無限大の表情がある。
地球が火の玉だったとき、月もまた火の玉だった。姉弟の火の玉が、燃えるのをやめて丸い塊になってからズーッと毎夜太陽を映してお互いの松明になった。だから月を見ると人は老若男女を問わず、恋を語りたくなるのだ。
今夜はロマンチックな(ヒロ爺)でした。
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風雨の去って舞い納めに茜の陽の差し込んで

本日が、ユッキーちゃんとの今年最後の舞い稽古であった。年の終わりに来て、小生にとって、ユッキーちゃんにとって嬉しく、愉快なことが新しく誕生した。終わり良ければすべて良しというが、本年はまさにその通りとなった。小生も、早くも来年の創作意欲に燃えている。ユッキーちゃんと言葉座を始めて以来、毎年新しい希望が生まれ、その何%かが達成されながら、この年の暮れを迎えた。振り返ると、今年は、一年目に野口さんという大きな出会いがあって以来の大きな出会いが生まれた。希望に満ちた新しい年を迎えることができるというのは、実に幸せなことである。
このブログを始めるきっかけを作ってくれた新しい友人木村さんにも大きな感謝を言わなければならない。この毎日の書き込みも120日を超えた。毎年少しずつゆとりある、のんびりとした暮らしができればと思っていたのであるが、ここ数年、毎年忙しい年を迎えることになってしまっている。来年は、さらに忙しい年になりそうである。だがそれは小生にとって嬉しい創作意欲という多忙である。
年内の公式な用は、26日のギター文化館の忘年会で終わりになるのだが、個人的、ことば座的には除夜の鐘が鳴り終わるまで続きそうである。そして、煩悩の鐘が鳴り終わったら直ぐに新しい煩悩に右往左往させられるのである。ああ、忙しい忙しいで年が終わり、またまた忙しい忙しいの日々が始まるのである。これこそ凡人における日々平安というものであろう。
(ヒロ爺)
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やっぱり師走だ大汗して走らされている

風船の風の吹くまま風の吹くまま、と呑気を決め込んだ田舎生活を望んでいたのであったが、望んでいた里山の田舎に居ない所為もあってか、のんびり呑気にとはいかなくなってきている。師走になって人並みに、いやもしかしたら田舎の人並み以上に走らされている。しかし、よくよく考えてみると自分の好きに走りまわっれいるのだからどこにも文句を言うわけにはいかない。この調子だと、来年はもっと走り回ることになりそうである。何だか生き急いでいるようで嬉しくない気分である。思いついたことを全部すぐにやろうとしないで、のんびり歩くことをしなかったら、この田舎町に暮らす意味がない。
今からしっかり来年の計を練っておかねば。それでないとまたまた走り回ることになってしまう。
(ヒロ爺)
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もういくつ寝ると…だがこれ以上の歳を重ねるのは寂しいと月に言う

なんでもそうであるが、新しいものはその時は快適である。昨日、悪戦苦闘していた新しいPCが友人のおかげで正常に立ち上がり、今日は至極快適に使えている。
先の土曜日、美浦村に行き、2月公演のための打ち合わせと共演する子供たちと顔合わせをしてきた。その時に提案された子供たちの共演部分について再考していたのであるが、台本は書き換えず演出を変えることにした。テーマだけを与えて、子供たちの自由奔放な感性で風を舞ってもらいそこに翁の朗読が被るといった形で進めてみたいと考えた。先日は、初めての対面であったので、子供たちの不安げな様子と小生の聊かシャイな対応でぎくしゃくしていたが、演出を考えながら、子供たちが次第に遠慮が解けてきたときに思いがけないほどスケールの大きなパフォーマンスが実現するのではないかと、今からワクワクしている。
だから早く年が明けて、子供たちと稽古を開始したいと思っている。しかし、年が明けるとまた一歳増えて老いを重ねるのかと寂しくもなる。それを月にぼやいても、お月様には迷惑なことであろう。
(ヒロ爺)
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師走の寒さがやってきてすべてが一安心

本日は、導入した新しいPCでの安心しての初めての書き込みになる。安心してのというのは一度はテストに書き込みをしたのであったが、その後メールの送受信のトラブルでやめていたのである。それを今日は、友人に家に来てもらい設定のやり直しをしてもらいすべてOKとなった。
この一日二日漸くの寒さがやってきて、例年の季節感となってくれたせいで、小生には愉快続きである。昨日は、今年知り合いとなった方が、実は間接的ではあるが非常に近しい因縁のある人であることが知れて愉快な気分になり、今日は一人では設定のできなくなったPCが正常に働くようになった。
隣の奥さんと話をしていたら、夏日のような温かさになったと思えば翌日には霜が降りたりして、花の苗がみんな根腐れを起こしてダメになったと、ぼやいていた。やはり日本という国は、春夏秋冬がはっきり季節として紡いでくれないと人も動物も植物も愉快に暮らしを造ることはできない。
今夜もお猫様は炬燵から出てこない。寒い冬の夜になるのだろう。これで明日の暮らしも愉快に紡ぐことができる。師走には師走の寒さがないと、師走という言葉がなくなってしまう。
(ヒロ爺)
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夾雑をすてた風の信太の海わたる

今日は、美浦村へ2月の縄文の森コンサートで、ユッキーちゃんと一緒に朗読舞を共演する美浦バレー同好会の子供達に会うため出かけて来た。子供たちへの指導を苦手とする小生ではあるが、指導をする柏木久美子さんの形に嵌めない指導を見ていて大層安心した。
芸術表現というと訳のわからない難しそうな理屈を言うのかと思われるが、そんなことはなく実に簡単なことなのである。自分にしかない自分を自分らしく表現することなのだ。だから、将来に向かって限りなく無限大に広がりをもつ子供達には、大人の勝手な思い込みや、指導と言う言葉に踊らされて作ってはいけない型を作り、指導と言う威厳を持ってその型に嵌めこもうとすることは決してやってはいけないのだ。その事からすると、柏木さんの指導は形を求めない自由で自在なものであった。自由自在を売り物にする小生としては、大層にうれしい事であった。
小生、柏木さんのことをこれまでどのような方であるか気に留めたこともなく、感性が通じ合えば良いと思っていたのであったが、今日帰りに色々な活動を紹介するパンフレットを戴き、家に帰り見て、成る程そうであったのかと納得することができた。
日本のモダンダンスの祖といわれている伊藤道郎氏の舞踏研究所に学び、ミチオイトウ同門会の会長をしておられる方であったのだ。このブログには伊藤道郎のことを紹介する事はしないが、小生がユッキーちゃんに出会い、能や人形浄瑠璃などをヒントに朗読舞という新しい表現を創出したのは、伊藤氏などの影響が皆無とはいえないのであった。舞台表現を学んで来た者には、伊藤氏は避けて通る事の出来ない人なのである。
伊藤氏が、ということではなく、縁とは男女の仲のことだけではなく異なものである、としみじみと思った愉快な冬の一日であった。
(ヒロ爺)
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月の明りにうたれて霜柱の目を覚ます

今夜は星の瞬きが鋭利に尖って見える。冬らしい素敵な夜である。
半月が冷たく光を放っている。
吐く息は真っ白。
このプラチナの鋭利な光が大地にしんしんと凍み渡るとき霜柱がそっと頭を出し始める。
あとは風のひと吹きごとに凍えが硬くなり、霜の頭がドンドンと背伸びを始めるのだ。
満天にプラチナの鋭利な剣の線が走るとき、この年老いた男は、凍えたプラチナの欠片が心の臓に突き刺さるのを待つ。
今夜のヒロ爺は何と詩人なのだろうか。
そうさ、幾ら歳をとってもセンチメンタルに心が凍ることもあるのだ。
(ヒロ爺)
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雪はしんしんひとり寝る

今日はつくばに用があり、雨は嫌だなと外に出たら雪がちらついていた。雪を見たら何故か幸せな気分となった。どうせ長くは降らないと思っていたが、ほんの一瞬のような雪であった。雪が降るようだったらつくばへは行くのをやめようと思っていたのだったが、やはり雪は直ぐに雨になった。
雨の日にポンコツ車でつくばまで出かけるのは嫌だなと思っていたが、今日行かないと行く日がないので仕方なく出かける。帰りは6号の方には出ないで山沿いに帰って来たが、紅葉をあらかた落とした木々の枝が山をモノトーンに塗り替えていたが、雪国育ちの小生は、この木々の枝から枯れ葉を落とし冬を耐えしのぶ準備ともいえる薄墨のようなモノトーンが春を作る準備を始めたと感じる大好きな瞬間である。雪国に育った者にとって、(小生だけかも知れないが)この時期と言うのは、雪に閉じ込められる心配よりは、確実に春を迎える準備を始めるのだという思いになる。春を迎えるために、古くなったものを脱ぎ捨て、白い雪に綺麗に洗い晒されて、無垢な状態で新しい自分を創るとといった感覚なのである。
朝の霙のような雪を見て、もしかしたら今夜は「雪はしんしんひとり寝る」の気分を感じる事が出来るかな、と期待したがそれは無理であった。しかし、今夜は冬らしい寒さが聞こえてきて、何となくワクワクしている。寒いのでお猫様も炬燵から出てこないので、小生としては膝を組んだり、投げ出したりと自由を楽しんでいる。
(ヒロ爺)
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風にのって時を漂い言葉に遊ぶ

今日の稽古に、NHK水戸の女性ディレクターが取材に来てくれた。久しぶりの見学取材であった。何時もはユッキーちゃんと二人きりの稽古であるが、やはり誰かが見ていると何時もとは違う表現が現われる。良いものもあるし作為的になって表現が小さくなってしまう部分もある。しかし、何時ものマンツーマンの稽古よりは気持ちの高ぶりがあって良い。
今週の土曜日に、美浦村へ2月に柏木久美子さんと一緒に舞をやってくれる子供たちに会いに行って来る。ユッキーちゃんとの稽古は来年1月に入ってからであるが、楽しく、予期しない(小生の想像を超えた)表現が創れたら嬉しいなと期待している。先日、12日の日曜日に美浦村の劇団宙の会の公演を観に行き、柏木さんの舞を初めて観たのであったが、流石に舞台に舞うと大きな存在感を示していた。ユッキーちゃんも、普段話している時と全く存在感が変わるとビックリしていたが、二人が舞の言葉でどんな会話を交わすのか今からワクワクしている。
(ヒロ爺)
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一人夜に何を喰おうか夢喰おか

好きな一行文詩は、と聞かれれば色々あるのだが、今の季節になると「一人夜に何を喰おうか夢喰おか」が浮かんでくる。次には「雪はしんしん一人寝る」そして「せつなく恋心の紡いで肩のつめたく」が思い浮かんでくる。
この温暖な気候の常世の国では、雪も降る事はないし、そろそろ根雪の来るころだと言ってもピンとこないだろうと思う。小生、大阪を戦災に追われ、母方の北海道に疎開してから高校を卒業するまでは雪国に過ごして来た。その所為か今頃の季節になると、根雪は何時降り出すのだろうかと半分待ち遠しく、半分家に閉じ込められてしまう憂鬱さを思い気持ちが揺れるのである。今では、温暖化の所為もあり雪も子供の頃のようには積もらないし、雪が降りだすのも遅くなってしまった。実際に雪国に住んでいると、雪の積もる前と言うのは、いたる所に泥んこ道ができて、それはそれは鬱陶しいものである。街中はみな舗装されているが、ちょっとわき道などに入ると、霜や氷が融けて泥んこ道になるのだ。長靴の底に泥が着いて歩く度飛びはねて長靴の中に入り込んでくる。実にいやな季節なのである。雪解けの春先もやはり同じなのである。だから今の季節には、泥んこの長靴の鬱陶しさから解放されたい気持ちと、根雪が積り家に閉じ込められてしまう憂鬱さがないまぜになって妙な気分になるのである。
そんな思いがあるものだから、肩のつめたく感じられる詩が頭によぎるのである。
さてさて、連日新しいパソコンと格闘しているが、なかなか小生の言うことを聞いてくれない。おかげで老眼がチカチカとし、涙目がとまらなくなってしまった。これからもうひと格闘せねばならない。何時になったら終わるのやら…。
(ヒロ爺)
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草取りの婆さんに道を尋ねたら横を向かれた

今日は、夕方からユッキーちゃんと2月6日の縄文の森コンサート・公演の稽古をして来た。昨日、土浦で劇団宙の会の公演を見た後、2月に共演するモダンバレーの柏木久美子さんと打ち合わせをして来たせいもあってか、ユッキーちゃんの舞が一段とスケール感が増して来た。タイトルに書いた一行文詩などはとても楽しい舞になっていた。今月はもうあまり稽古ができないが、公演が楽しみである。
さて、草取りの婆さんに~~~横を向かれた、と同じ目にただ今遭遇している。ノートPCを新しくして、その設定を四苦八苦しながら行っているのであるが、全くこの詩のような状態である。おまけに「通りゃんせ」の歌のように「行きは良い良い、帰りは恐い」の状態になって「何でだ?」とただ今頭がフリーズしている状態である。どうもPCの設定作業だとかと言うと、アナログの頭がデジタルを拒否するようである。
(ヒロ爺)
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舞台は素敵な贅沢

今日は土浦の県南生涯学習センターの特設ホールで行われた美浦村の劇団宙の会の公演に出かけて来た。市民劇団であるから技術的にはかなり未熟なものがある。しかし、俳優・裏方の皆が一丸となって一つのこと(特にふる里の暮らしの豊かさ)を表現しようという情熱の強さには、毎回驚かされる。
小生、脚本演出家であるからではないが、舞台表現ぐらい素敵で贅沢なものはないと言える。演出家としたら、幕が開いた途端逃げ出したくなるものであるが、それも贅沢の一つであると思う。映画の演出(監督)は、自分の思う通りの事が100%ではないが達成することができる。出来が良くても悪くても、上映が打ち切られない限り毎日同じものが公開される。演出家(監督)としての存在は無視されることなく実存する。ところが舞台では演出家の存在なんて幕があいたら無きも同然となる。俳優陣が、仮に演出家の指示通りに演じようとしても観客がそれを許さなくなったりするのである。特にこうした宙の会などの市民劇団ではなおさらである。小生には、こうした市民劇団の演出はとてもできない。だが、演出家の意図などとは別に、何処へいくのか全く予測のつかない演じ手と観客のノリは、その一体感が強いほど迷走するのであるが、小生などはそれが楽しくもなる。
セリフを忘れ、相手役に何だったっけ? と小声で聞いたるする場面も何度かあるが、観客はそれを許し温かい拍手を送る。実に素敵な贅沢な時間をもらった気がして、未だその興奮に似た想いを感じている。
(ヒロ爺)
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分かったつもりでも何も分かってないPC

ノートパソコンがダメになり、本日購入して来たものの初期設定がなかなか上手くいかない。上手くいかないというのは嘘で、お手上げ状態である。息子に電話するが、忙しくて我が家に来る時間が取れないという。それで必死になってセットアップマニュアルを読んではみるが、正直さっぱり分からない。小生にできる事は、文章を打つことだけである。ワードが少し使えるだけでその他は全くダメである。このブログも、友人の木村さんから親切丁寧なメールをいただき、それにならって手続きを打っていたら、「おおッ!できた」と言う按配である。それでもこうして毎日書き込んでいると、もうすっかりパソコンを使いこなせた気分でいるのだから困ったものである。
それでとうとう又木村さんにヘルプのメールを入れてしまった。今月号の「ふるさと風」の会報に、来年から原稿は原則データーで入稿するようにするのだ、なんて意気込んではみたが、身の程知らずの小生の単なる勝手な強がりのようである。
これは何時も思うことなのであるが、コンピューター関連の説明書やマニュアルというのは初心者にはさっぱり理解ができないものである。何とかならないものだろうかと思うのだが、どうやら理屈を考えていないで壊れるまでいじれという事のようだ。小生も今度で四台目の購入となるのであるが、毎回説明書が難しくなっているように思えてならない。二十数年前、小生の走り書きの原稿を打ちこんでくれていた秘書の女性が風邪で数日休んだことがきっかけでワープロを打ち始めたのが最初で、取り敢えず原稿だけは手描きと変わらぬ速さで打つ事が出来るようになった。ただそれだけなのに、自分ではすっかりPCが使いこなせていると思い込んでいるのだから、実に恐ろしいことである。
しかし、PCの説明書は後期高齢者には理解することが大変である。
(ヒロ爺)
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ミャーオミャーオ 耳ちゃんうるさいよ

耳ちゃんとは我が家のお猫様の名である。耳ちゃんこと我がお猫様は、夜半に我が家にやってきて玄関でミューミューと鳴いて住み着いてしまった猫である。何処かに飼われていた猫のようなのであるが、飼い主が見つからず我が家のお猫様になってのであった。最初に飼い主の見つかるまでの仮の名として、耳の毛が薄く綺麗なピンク色に染まっていたので「耳」と付けたのである。しかし、とうとう飼い主が見つからず、我が家のお猫様になったのである。耳ちゃんは、我が家に来た翌日からブラッシングやお風呂に入れてシャンプーをしても嫌がらなかったので、そうしたケアーに慣れていたのだと思う。全身が真っ白で顔と尻尾が三毛の雌猫である。
お猫様が、夜半我が家に訪れたのは、葉津と言う名の雌のパグ犬が亡くなってちょうど一ヶ月が過ぎた日であった。洋猫の血が濃く、綺麗な青の瞳をしている。小生、猫派ではないのであったが、よく懐きパグの葉津ちゃんと同じ仕草に、小生が机にパソコンを入れると膝の上に収まり、葉津ちゃんと同じように一緒に仕事をするかのような態度を取るのである。犬と猫の違いはあるが、小生に要求することも全くよく似ている。
夜の11時になると、必ず布団を敷けと言いに来る。ちょっとでも待たせるとワンワン、ミューミューと敷くまで鳴き続けるのである。布団を敷けば、納得し大人しくなるのである。お犬様もお猫様もモデルにしてふる里の物語を書いている。
お犬様もお猫様も小生と一緒にパソコンに仕事をすることが好きである。パソコンの音が聞こえると直ぐにやってきて膝の中に座り、モニターを見たりキーボードを打つ指を見たりしている。特にお犬様は、まるでモニターの文字が読めるようなしぐさをし、フ~ンとかフンと鼻息をするのである。
小生、人間様よりもお猫様、お犬様の方が好かれるようである。犬にも猫にもあまり警戒されない。それどころか直ぐに懐かれてしまう。まあ、動物であっても嫌われるよりは好かれる方が良い。
お猫様は今、ファンヒーターの前に長々と寝そべっている。お猫様幸せのひと時、である。
(ヒロ爺)
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栗林の死んで秋の行き暮れて

今夜は少し冷え込んできたが、師走とともに冬がやって来たとまではいかない。我が家の前が栗畑であった頃は、今時分になると枝枝の葉がすっかりと落ち、鋭い枝先が天を突くようにキリッとした風姿を見せ冬を感じさせてくれていた。今は、栗林はなく宅地分譲されて家が建ち並んでいる。その所為か、風が友達のような吹き方をしてくれなくなった。余裕なくせかせかと急いで行ってしまう。何だか義務的に流れているようである。風に声と唄が無くなってしまったのである。住宅が建ち並んだおかげで冬の冷え込みが小さくなった。風に声して遊ぶことが好きな小生には些か寂しい思いがするが仕方がない。
家の前が栗林であった頃、夏の夕方には半そで姿で庭に出る事が出来なかった。ものすごい数の藪っ蚊に襲われるからであった。家の中も蚊取り線香が一日煙っていたものである。カブト虫、クワガタ、カミキリが沢山居た。雉のつがいも居てなかなか楽しめたものであった。
住宅が増え、若い夫婦も増えたのであるが、不思議な事に子供の声が聞けないのである。子供が居ないわけではないが、外で声をあげて遊ぶことがないようである。何をして子供等は遊んでいるのかと気になるが、聞いて回るわけにもいかず不思議に思っている。外に出て駆け回って遊ばない子供達には創造力を養う場がないと思うのであるが、親達はどう考えているのであろうか。
栗林が無くなり住宅がびっしりと建ち並んで、人工的な風景になったが、季節の移ろいがちょっと吃驚して行き暮れてしまっているのではないだろうか。秋が終わって次は冬ですよ、と大声で風が声出来なくなったのではないだろうか。
(ヒロ爺)
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恋詩のつもってひとり

「恋詩のつもってひとり」は、ユッキーちゃんの最もユッキーちゃんらしい舞をする一行文詩である。
今日は、来年2月6日日曜日、美浦村の陸平遺跡:文化財センターで演じる舞の稽古を行った。ユッキーちゃんの舞の原点ともいえる一行文詩集の「ふるさとの風に吹かれて」を久しぶりに演じる事にした。小生がユッキーちゃんに面接した時、この一行文詩を舞をイメージして手話にしてみて下さいとオーディションしたのであったが、これまで演劇もダンスも舞も全く経験のなかった人の表現ではなかった。小生としては強烈なショックを受けた事を今も鮮明に覚えている。それが「ことば座」を立ち上げる始まりであった。
この「ふるさとの風に呟いて」の一行文詩の舞は、つくばカピオホールが初演で、その後部分的に何度か演じて来たのであったが、美浦村の縄文の森コンサートでは久しぶりに全篇を演じる。まだ三度目ぐらいの稽古であったがそのスケール感には何度接しても驚かされる。声音の文を手話に翻訳し、言葉と言葉の間を繋ぐ心の感情の襞を驚くような舞の動作に構築してしまうのである。本当にふる里の大切な財産として大成させてやりたいと思う。
友人の木村さんが開設しているブログ「まほらにふく風にのって」では、ふる里に忘れ去られようとしている色々な文化のことを紹介しておられる。今週は「親鸞750回忌」について紹介しておられるが、ユッキーちゃんの朗読舞も一部のマニアックな存在で終わらせ、埋もれさせてはいけないと、小生の気持ちばかりが焦る。しかし、新しい何かを、市民権を取らせるまでには十年の単位で考えていかなければならない。我が歳を考えると焦りが大きくなるが、焦って早まるのならば焦りもするが、腰を据えてやるしかないであろう。
しかし、ユッキーちゃんの一行文詩の舞表現は身贔屓ではなく素晴らしい才能だ。
(ヒロ爺)
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何もやってないのに何故か忙しい 師走は無関係

ことば座の公演が終わった後、お猫様と毎日何もせずにゴロゴロしていたのかと振り返ってみたところ、確かに昼頃の一時間ほどはお猫様を抱いて陽だまりにゴロゴロしていたのであるが、先ほど予定表を見て驚いた。実に毎日大した用でもないがちょこちょこと出歩いているのであった。のんびりお猫様と昼寝をしていたにしては、のんびりとした気分にならないなと思っていたら、落ち着きのない日々を過ごしていたのだ。
今日は、行方市の玉造・浜に用があって出かけて来たのであったが、午後の日が短いので、あっという間に一日が終わってしまった。今夜は、何かをやらねばならなかったはずだが思いだせない。取り敢えずこのブログを書き終わらせてと思って書き始めた途端、来年のことば座の活動予定のポスター作りをやらねばならない事を思い出した。そうしたら、2月の縄文の森コンサート公演の案内チラシも作らなければ、野口さんとのオカリナと詩の朗読コンサートのポスターも作らねばならないなど次々にやらなければならない事が出てきてしまった。もう二十数年も前の事であるが、年間80本を超す台本を書きなぐり、十数本の現場を抱え、寝ずに走り回っていた事があったがその時と変わりないような感じがする。
自然界の動物は、腹が一杯になると、満腹感を少しでも長く持続させるために何もせずひたすら動かず寝ているものなのだが、人間という生き物は腹が一杯になってもまだあくせく動きまわっている。これは何としても異常過ぎると思うのだが…。
死んだら幾らでも寝られるなんて誰が言ったんだ。そんな嘯いた台詞を最初に言った奴はどこのどいつだ。
この痩せ老人ヒロ爺も死ぬまで走るのかな?
(ヒロ爺)
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木枯らしの居ない師走 師はのんびり鼻提燈

本当に温かすぎる一日であった。明日あたりからは寒くなると天気予報では言っているが果たしてどうなのだろうか。このまま年を越し、春を迎えるような事になったら大変である。凍りつくような冬がないと、田畑や里山の害虫が凍死せず大変なことになる。害虫がわくと殺虫剤を大量に使わなければならない。そうすると水が死んでしまう。無農薬有機農業なんて言ってても、天下から落ちる水が汚染されているのだから、正確にいえば気休めの無農薬農業に過ぎなくなるのだ。
そこで余計な心配を考えてみた。暖冬になり化石燃料の消費が減って、温暖化に寄与したとして、暖冬の所為で害虫と呼ばれる虫が大量発生し農薬を大量に消費するのとでは、どちらが環境に優しいのだろうか、と。これはもしかしたら神と表現してもよい自然の摂理が、人間を主とする動物達を減少させるためのノアの洪水を起こしているのではないだろうか。
あまりに温かすぎる師走の午後の陽だまりに寝転んでそんな事を思ってしまった。
(ヒロ爺)
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雑木林に大声したら風が攫って連れて行った

今日は慌ただしい一日であった。風の会会報を午前中印刷し、午後に配って回り、やれやれ一眠りと思ったら、お猫様がやってきて天気が良いのだから外に行こうという。仕方なくお猫様を抱いて散歩に出た。
猫は半径3百メートルを超すと自分の家に戻れなくなってしまうのだという。その所為なのか、家からどんどん離れていくと、小生に爪を立てるようにして確りとしがみついて来た。「なんだ怖いのか」と声をかけると安心するのか顔をあごの下にピッタリくっつけてくる。それで仕方なく「耳ちゃん、耳ちゃん」とズーッと声をかけながら歩いた。小さな雑木林の所に出たので、少し声を大きくして「みーみーチャン!」と叫ぶように呼んだら、突然風が吹いてきて、小生の声を掻っ攫って行った。しかし、師走の風とは思えぬほど温かい風であった。
(ヒロ爺)
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蹴飛ばした小石に心を移す秋の夕

さっき漸く会報「ふるさと風」の編集が終わった。今年最後の号である。今月号は、編集に随分と手間取ってしまった。だが手間取ったにしてはページ数が16ページに終わってしまった。ページ数は多いから良いというわけではないので、減った事は気にしていない。
会報は今回で55号になった。毎月発行だから結構大変である。文作が生業である小生でも、毎月決められて書くのは面倒になるぐらいなのであるから、会員の方たちは大変だろうと思う。しかし、風の会の会報の凄い所は、以前にも書いたかもしれないが、在籍する会員は一度も原稿をパスした事がないことである。これはもう「屋根屋の褌」以上に見上げたものだと思う。
年が明け、5月には満五歳となる。60号である。たかが5年と言われそうであるが、在籍会員の一度も休みのない5年なのだからやはり凄いことである。
夕方、編集に疲れお猫様を抱いて風を吸いに外に出た。アスファルトに転がっていた小さな石ころを、車に飛んだら危ないと草むらに蹴込んでやった。カサッと枯れ草に落ちるすんでに小石が夕茜に染まった。
(ヒロ爺)
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嵐の中へ飛び出せ 大雨よ大風よもっと激しく

午前中は大雨、午後は強風。季節外れの大嵐である。これも異常気象の所為なのだろうか。
非常に不謹慎なことなのであるが、小生子供のころから、どういうわけか大雨だとか大風といった嵐が大好きで、びしょ濡れになり吹き飛ばされそうになりながら外に飛び出し、歩き回りたい衝動に駆られるのである。だが、他人に迷惑をかける事になりかねないので、実際に外へ出て歩きまわったりすることはない。しかし、嵐の声を聞くともうジッとして居られないほどソワソワしてくるのは止められない。
小生には、子供のころから自己破壊衝動のようなものがあり、「その古木の洞には蠍が居るぞ」と言われると手を突っ込んでみたくなるのである。大人になり「敗闕もまさに風流なり」という言葉を知ってからは、自虐的行動、自己破壊的行動を意識してとったりしたのだった。分別のない自己顕示欲の延長だと言われれば反論の余地はない。
しかし、今も強風が雨戸をガタガタと打ち鳴らしているが、この嵐の音はたまらなく快感に思えてくるのは困ったことである。

毎日、このブログを書きこむ前に必ず友人の木村さんのブログを開いて見る。そして、木村さんのブログが更新されていると、小生も書かねばいけないと背中を押してもらうのである。木村さんは、ことば座のHPを立ち上げていただいた方で、木村さん自身は「1300年の歴史の里《石岡ロマン》」のHPを開いておられ、元気のない石岡を何とか元気にしたいものと頑張っておられる。
小生がこの石岡に稀有な才能の女優、ユッキーちゃんに出会い、朗読を「手話を基軸とした舞いに表現する」朗読舞を創出し、この石岡から発信していこうと、地盤のある東京には行かず石岡に頑張っているのと同様、足元にゴロゴロしている歴史文化を大切に再生し明日の希望につなげたいと頑張っておられる方である。
強風の声にそわそわしながらも木村さんに背を押されての「ヒロ爺の余話閑話」である。
(ヒロ爺)
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十年前も今日の日は秋

十年前の句帳を引っ張り出して、しみじみと思った事は、十年前も今日は秋だったという事実であった。ばかばかしいと言われればそれまでなのだが、そんなばかばかしいことを改めて思ってみることも必要なのではないかと思う。十年前に句帳に誌した一行の文を引き出してみよう。

 ・柿の実の夕焼けに染まり鍋の湯気
 ・甘柿渋柿干し柿喰った
 ・一人残されて寂し柿あかね
 ・秋の老いて酒のうまくなる
 ・今日は何処行く秋は死暮れて
 ・夕陽に散歩してジンジロゲ唄う
 ・つかれたら休めと秋のいふ しぐれ道
 ・雑木林のぬけて牛のモ~ウと啼く
 ・俺が先だと風に言っても詮方なし
 ・明日も晴れたら昼寝をしよう
 ・偸む気持ちがあれば何でも楽し
 ・気持ちの急いでもゆっくりしても過ぎる時は同じ

(ヒロ爺)
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ヒロ爺

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ヒロ爺は、映画・演劇の脚本・演出を生業としておりましたが、日本シナリオ作家協会を退会し、何もやらない何もしない暮らしを始め、周囲の顰蹙を買っています。しかし、何もやらない何もしない暮らしは、その才能と精神力がないとできないことを知り、改めて己を天才(天災)かも知れないと思っている所謂呆け老人です。

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