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常世の風に吹かれて呟いて…

常世の国に迷い込んだヒロ爺が、日々の風に吹かれて呟きを舞う

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ここは何処かと雀らにきく秋の老い

石岡に越して来た当初は、あちこち散歩して歩いたが、今はものぐさになってしまいお猫様を抱いて明日からにしよう明日からにしようと怠惰を決め込んでいる。
「ここは何処かと雀らにきく秋の老い」の詩も十年も前のものである。先日、自転車でかつての散歩道をぐるっと一回りして来たのだが、そこで気付いたのは雀の姿を見なかったことである。雀なんて何処にでも居るものと思い込んでいたのであるが、我が家の周りにも雀の姿を見る事が無くなってしまった。
少し前の事であったが、テレビで東京に雀が居なくなったとニュースしているのを見た。屋根瓦の造りが改善され、かつては瓦の隙間に巣を作っていたのが、作れなくなったことから、雀の数がめっきりと減ったのだという。東京の話であれば、そうかと納得もいくのであるが、竹藪や雑木林のあるこの石岡でも雀の姿を見なくなったのはどうしたことなのだろうか。大層に気になる。
先ほど、友人のブログを読んでいたら八郷富有柿の話が出ていた。それで思い出したのであったが、戦災に追われ母方の北海道に疎開し、本土に帰ってきて感激したのが、柿であった。葉の落ちた枝に柿の実が付いているのを見て何と綺麗な風景なのかと思ったのであった。特に夕茜に照らされた柿の実の美しさは衝撃の体験と言えた。北海道には柿の木はなく、当然のこと木になっている柿の実を見たのは初めての事であった。美味しそうに、綺麗に見えた柿の実が、齧ると渋いのだと聞いてもう一度驚いたことを今でも鮮明に覚えている。
本土に帰ってきて驚いたもう一つは、黒光りするゴキブリの美しさだった。今では背筋がゾッとするほど嫌な虫であるが、子供の目に映ったゴキブリの黒光りは、まるでかぶと虫のようであった。今では北海道も住宅が温かい所為かゴキブリの姿を見る事があるのだそうであるが、昭和20年代の北海道にはゴキブリは居なかったのである。長い触角と黒光りの羽は子供の目には実に魅力的であった。
しかし、どうして雀の姿が無くなってしまったのだろうか。明日から庭にコメ粒でも撒いて雀を呼んでみようかな。
(ヒロ爺)
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月の顔もいろいろ今夜は寝待ちの月

今、突然に月の顔を見たいと外に出て天を見上げたら、星空だけで月の顔が見えなかった。今夜はどうやら寝待ちの月らしい。今、8時過ぎであるが、いざ宵の月・たちまちの月・居待ちの月・寝待ちの月あるいは上弦の月・下弦の月・弓張りの月などなど日本には何と月の顔が沢山ある事か。月の持ついろいろな顔の其々にそれなりの物語があるのだから日本人とは何と感情豊かな民族なのかと改めて日本人である自分を誇りに思ってしまう。
しかし、自然の情景を人の心模様に照らしながらさまざまに表現するのは、日本人だけの特性ではない。人類の持つ文化力である。文化力とは、人間の(己の)心を何かに表現しようとする力であると小生は考えている。そして、その根源は作文をする高次な言語であるといえる。低次の言語は他の生物にもあるが、人間のような複雑な作文を行うことができない。欲求に直結する単純な喜怒哀楽を表現する作文だけである。だから自然界の動物達には嘘を言って騙し己の利を得ようとする事はないのである。
月を愛でる、風景を愛でる、花の色を愛でる。
そんなことを言葉を綴って行えるのは人間だけなのだから、言葉を大切に考えたいものである。
(ヒロ爺)
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この道何処まで続くかと空に聞く 死暮るるまでと風のいふ

机の周りの模様替えで引っ張り出して来た詩帳を飽きもせず眺めている。「この道何処まで続くかと空に聞く、死暮るるまでと風のいふ」は2005年に詠んだものであるが、この年の元日には「来年があるさと元日のいふ」と詠んでいた。どんな情態であったのかは思いだせないのであったが、この年の秋にユッキーちゃんと「ことば座」を設立したのだった。
そのユッキーちゃんとは、明日から2月6日の美浦村縄文の森コンサートで演じる朗読舞の稽古に入る予定である。縄文の森コンサートでは、一行文詩の舞「ふるさとの風に吹かれて」と「縄文の舞」をオカリナの野口さん、モダンバレーの小峰さんとのコラボレーションによる舞台作りを行う。ユッキーちゃんには初めての違うジャンルのダンサーとの共演である。この共演で、もう一皮むけて一層大きなスケール感を身につけてくれる事を願っている。
(ヒロ爺)
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雑木林のごみ溜めに行き倒れて狸

今日も昨日の模様替えで引っ張り出して来た十年前の詩文ではじめる事にした。数日前に、かつての散歩道であった雑木林のある場所に自転車で行ってみた。雑木林のそこここに「ごみ捨てるな!」の看板が立ててあり、以前に比べごみ溜めが少なくなっているようであった。しかし、一か所だけ、以前よりごみ溜めが広がっているところがあった。
小生、死刑のような極刑を持った景観法を制定すべきであろうと考える一人である。本当は、景観法のようなものは不文律の規範であるべきなのだが、文化的にレベルの低い者達には「不文律の規範」という言葉も知らないだろうし、理解できないであろうから、死刑相当の極刑を持っても良いのではないかと思う。しかし、不文律の規範などと言う言葉は、もう死語になってしまったのであろうか。道徳という言葉を天皇の神格化だとかに結び付けて考えてしまう人たちが居るのだから、不文律の規範なんて言葉も死んでしまうのだろうなと淋しくなる。
道徳のない人間社会と言うのは存在し得ないのだし、不文律の規範のない人間社会もないのだから、その言葉の本来の意味を理解し、大事にして欲しいものである。
『カタカタと枯れ一葉の風車する』これも狸と同じ頃に詠んだ文である。
(ヒロ爺)
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竹林に風の吹いて古葉の降り積もり

今日は、小生の趣味の一つともいえる机周辺の模様替えを行った。小生が模様替えを始めると、お猫様は大喜びする。机の上の本棚の位置を変えるために、一度本棚を空にするのであるが、床に本を積み上げ始めると、お猫様が嬉々としてやってくる。積み上げた本の柱の上に飛び乗ると、次々に渡り歩くのである。そのうちに本の柱の一本が崩れる。そうするとお猫様は、やったやったと言わんばかりに部屋を駆け回り始めるのだ。小生の「こらッ~!」と大声を立てるのを促しているのである。こらッ~と大声を出しすと、大喜びに一層の駆け巡りをするのである。こらッ、こらッ、こらッ!と叱りながら、小生が崩れた本を積み上げ始めると、少し離れて眺めているのである。それで、積み終わるとまた本の上にのり右に左にと飛び移り遊びをするのである。その内また本の柱が崩れると、やった! やった!と言わんばかりに部屋を駆け巡るのである。お猫様には、小生の模様替えは、一緒に大はしゃぎに遊べるチャンスなのである。
模様替えの楽しみは、整理している本や資料などから想いの掘り起こしを楽しめることである。「竹林に風の吹いて古葉の降り積もり」は、古い一行文詩帳を開いて見付けたものである。石岡に越してきて間もない頃の一行文詩である。パグ犬の「葉津ちゃん」を連れて散歩しながら詠んだもので、もう10年以上前のことになる。突然に「葉津ちゃん」の写真が見たくなり、積み上げた本をひっくり返し、アルバムを探し出した。
アルバムを開き「葉津ちゃん」の顔を見るが、親馬鹿ではなく本当に器量良しの孫娘であった。写真をながめていたら、お猫様は何処からか消しゴムを探し出してきて、一人遊びを始め出した。
何とも平和な一日であった。
(ヒロ爺)
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風は自由で自在な景を囁いて流れて流る

小生、へそ曲がりなのかもしれないが、枠だとか尺度が大嫌いである。
これは小生の考えであるが、尺度とは限界をつくることであり、枠とは安定だとか秩序の保証を欲しがる奴の姑息な心情であろうと思う。特に文化・芸術部門に生きる者にとっては持ってはいけない宝刀であろうと思う。
尺度を持ってしまうと本来無限大であるはずの表現の可能性に対して限界値をつくってしまうことになってしまう。絵でも文でも音楽でも評論と言う世界があるが、優れた評論家にはつまらぬ尺度がない。尺度を持って作品を評論しようとすると、作品が有している所謂無限大の広がりを見落としてしまう。そして有限によって生まれる上下をつくりだし、そこに権威を伴った安定をもとめてしまう。
枠とは、それを持つことによって秩序が生まれ、秩序をつくることによってある種の人達に対して生きる事の保証をつくり出してしまう。楽な保証が欲しいから枠を守ろうとする。自由奔放であらなければならない表現者が枠を持った時点でその人の所謂芸術性は消滅するのである。
尺度だとか枠を持った途端その人からは自由自在が無くなり、利権を守る姑息な不自由人となってしまう。
こんな風に考えていくと、職業は、と問われて自由業と答える項目に○を付けるのであるが、決まりのない無手勝流が果たして職業だとか生業だとかになり得るのだろうか。変な感じだ。
(ヒロ爺)
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生けるものに平等に与えられし事の死暮れ

恋歌でも詠もうかと思っていたのであるが、突然に「善人なほもつて往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや」なんて歎異抄の言葉が浮かんできて、恋歌の気分が飛んでしまった。
小生、牧師の両親に育ち、一応はキリスト教徒なのであるが、どうも聖書と言うものが好きになれない。古典の中の色恋の実相を好んで読む所為ではないだろうが、時々歎異抄だとか無門関だとかの言葉が意味もなく浮かんでくる。それは、小生の人生観との関係もあるのだろう。
小生は、自分の人生についてはこんな風に考えている。「人間どう生きようが、何をしようが、その最後は誰もが平等に、同じの死。悪さの限りをつくして死刑をうけようが、どんなに聖人と言われる人徳者になっても、その最後は平等に同じの心臓停止。そして、心臓が止まれば唯の物。人間だなんて偉そうに言ってみても心臓が停止すれば物。物は経時、経年によって変形・変質・分解・組立がなされ現在が終わる。だから自分の思うがままに納得できる生き方を選ぼう。そこに他人が泣こうが叫ぼうが放っておけ。自分が姑息・卑猥でなく、生きている納得を感じることができるのなら」と。

今日は、公演後はじめてユッキーちゃんと会って、来年度の予定と、2月に行う縄文の森コンサートで演じる台本の打ち合わせを行った。縄文の森コンサートでは、久しぶりに一行文詩の舞を舞うことになる。一行文詩の間にあるちょっとお洒落な呟き文の演技に新しいイメージを加えるように指示したが、どんな舞いを創って来るか楽しみである。来週から、本格的に稽古を始める。
先日、オカリナ奏者の野口喜広さんから、韓国の民族楽器(太鼓)を借りて来たのであるが、革の張り具合を変化させながら打ちならし、舞歌に合わせると、なかなか面白い感じになった。縄文の森コンサートではこれを試してみたいと思う。
(ヒロ爺)
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今日もまたお猫様抱いて昼寝に呑気する

午前中の雨を言い訳に、お猫様を抱いて炬燵にゴロゴロとしていた。午後には陽も射してきたが、動きまわって何かをする気も起らない。このブログも、本当は昨日の続きで「問題解決」の話を進める予定にいたが、お猫様に「面倒な話はやめような」と声をかけたら「ミュー」と啼いて返事をくれたので今度何時かにすることにした。
小生、脚本家のくせに「CS(カスタマーサティスファクション)を基軸とした活性化プログラム」なんて本を出版したことがある。映像の脚本家と言う仕事には下世話な雑学と幅広い専門知識が要求される。それは、映画が糞リアリズムによって展開しなければならないということから来るものである。ことに小生は、文化・教育・ドキュメンタリーの分野を主たる戦場にしていたので、テーマが変わるたびに新しい分野の専門知識を学ばされることになる。公害問題がテーマの本となれば、化学・生物学・医学などと言った資料を読まなければならなくなる。自然と知識の幅が広くなってくる。
二人の子育て真っ盛りのころは寝る間も惜しんで仕事を入れた。年間に80本を超える脚本を書きなぐったこともある。その時に思った。こんなに毎日勉強をしなければならないのだったら、学生時代にもっと頑張って親父の後を継いで医者になるべきだったなと思ったものである。父親が毎晩遅くまで医学資料を読んでいるのを見て、大人になってもあんなに勉強をしなければならない職業なんてまっぴらだ、と思ったのである。
そうしたら、今度は子供たちからは演出家だとか脚本家と言うのは、何時も何時もあんなに沢山の本を読まなければならないのだから、あんな仕事は嫌だといって選択の外に早々と投げ捨ててしまった。
しかし、考えるとどんな仕事に就こうが、その道の勉強はやらなければならないし、大変さはみな同じである。
30年ほど前のことであるが、ある経営コンサルタント会社で工場改善のための新手法の話をかなりの本数を書いたことがあった。その中で、今では「設備故障は人の不適正行動がもたらす結果である」との認識は、工場関係者であれば皆知っている事であるが、「故障とは人が故意に障害をつくることを言う」と故障の語源から導き、定義したのは脚本家である小生なのだから可笑しなものである。
さてさて、明日からは「常世の国の恋歌」でも詠んでみたいと思うが、どうなるか…。
(ヒロ爺)
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秋の風を吸いこんだら気分まで紅葉に染まった

今日は行方市浜にお住まいのオカリナの野口さん宅に出かけて来た。雑木林の中に静かに座ってある野口家は、小生の気分を枯れ葉の温もりの中に埋もれさせてくれる。犬のケンケンと猫のタマちゃんが歓待してくれるので、一層気分がなごむ。野口さんも霞ヶ浦の風景が気に入り浦和から越してこられた。
野口さんとは思わぬきっかけで知り合ったのであるが、ことば座の定期公演の大半の音楽を担当していただいている。我がユッキーちゃんは、野口さんの奥さんである恵子さんのパーカッションに舞うことが大好きで、今度はどんな演奏で舞いを創ろうか、というと恵子さんのパーカッション、と先ず言うのである。聾のユッキーちゃんには打楽器の響きが一番感じやすいので、恵子さんとは一緒に表現を創るという感覚を持ちやすいのである。
今日も野口さんとは、何とかこの素晴らしい国をアピールしたいもの、と話が出たのであったが、この国の人に話をするとドンドンやって下さいとは言うが、自分たちは何もやろうとしないですね、と何時もの答えになってしまった。

一昨日のブログで、石岡の美術展に行っての感想と問題点(取り繕うことばかりで作品に己を劇しく表現できない)を書いた。昨日は、街の活性化について、動機を直ぐに結果に結び付け、動機から結果への重大なプロセスである葛藤(逡巡と洞察)がない事を書いてみた。そこで今日は、問題解決における基本中の基本について少し書いてみよう。
自分が解決できる問題とは、自分の責任の範囲だけである。そして問題解決とは言葉では言うが、実際に解決出来るのは、問題の点だけである。ふる里興し、街興しをするために問題の解決に取り組み失敗するのは、このことを理解していないからである。問題と言うのは無限大に大きなもので、これは決して解決できるものではない。
街興し、というテーマを掲げたら、元気を阻害している要因を洗い出し、解決の可能な点にまで分解し、問題の点を自分の責任の範囲に置き換えることが必要となる。
何故、問題点を自分の責任に置き換えるのかといえば、他人の責任であるものを解決することはできないからである。こうしたことを理解しないで、街興しのための問題解決なんて決してできないのである。
こんな話をすると、多くの人は問題の責任をすべて他人のせいにしてしまう。○○が悪いからこうなった、と分析する。こうした思考では絶対に問題は解決できない。この時に、手を下した直接の責任は○○であるが、手を下す前に「それではだめだ」と言わなかった自分が悪い、といったように他責の自責化というプロセスを持たない限り、問題は絶対に解決することはできない。
我等のことば座では、この素晴らしいふる里の元気を全国に発信していこうと、その目標を掲げ、その中で自分の責任の果たせる範囲に問題点を絞り、足元に見つけた問題点(この場合は題材)をモチーフに物語を創り、それを舞いに表現するという形で、問題の解決にあたっているのである。
一口に説明できる話ではないので、今日は、入り口だけにするが、折を見て少しづつ話を書いていってみたいと思う。
(ヒロ爺)
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秋日和 舞い落ちる銀杏の葉の黄金に染めて

良い日曜日である。お猫様を抱いて庭に出る。我がお猫様は裸足で庭に下ろされるのが嫌いなようである。一歩足を進めるたびに足の裏についた土をプルプルふるい落とすのである。抱っこしてやると満足そうにグルグルと喉を鳴らす。お猫様を抱っこしたまま気付いた雑草を引っこ抜く自分の姿を想像し笑ってしまった。実に長閑で、良い日曜日である。
もうお猫様の話を卒業して、違う話をしていこうかと思っていたが、自分の範囲内の演出家・脚本家の視点で見たもの、感じたものについてを書きすすめていくとどうしても辛辣な話になってしまうので、どうしようかと些か迷っているところである。
友人のブログを見ると、沈没しかかっているふる里を何とか元気にさせたいと、色々な視点について書いている。この町の人の何人がそれを読み、自分なりにその先へ考えを進めてみているのだろうかと気にかかる。
ふる里「石岡」を元気にしたい、という動機は市民の全員が持っているだろう。しかし、その後がいけない。動機を直ぐに結果に結び付けて考え、その中間を省いてしまうものだから、何も変化のないどころか一層の悪化を招いてしまっている。ふる里を元気にしたいという動機から、元気なふる里と言う結果を導き出すためには、その間にある実際行動としての葛藤がなければならない。葛藤と言うのは逡巡と洞察ということであるが、我が石岡市のふる里にはそれが無いのである。
動機を直ぐに結果に結び付けて考えるというのは「棚から牡丹餅」を考えている事に他ならないのである。
朗読舞劇団「ことば座」は、ふる里から発信する文化力、の動機を持って足元に踏みつけられてある物語の芽を探し出し、それを朗読舞物語に創作し、それを演じながら結果を導き出すプロセスを牛歩している。まる四年が過ぎて、来年は五年目に入る。派手さはないが、確実に評価されてきた。座長である聾唖の朗読舞女優小林幸枝ことユッキーちゃんの表現力も大きく成長してきた。結果を実感するまでには未だ未だ葛藤する時間が必要であろうが、こうすること以外に最短距離はないのだから、逡巡と洞察を継続していくしかないだろう。
それにしても今日は温かく良い秋日和であった。
(ヒロ爺)
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もっと自由にもっと自在にと秋の風の言う

今日は、石岡市の美術展に行って来た。ここ数年、毎回出かけてみるのであるが、正直言ってお粗末すぎる。今年は特にそれを感じた。絵画、書、陶芸、彫刻等が出品されていたが、酷いものであった。作品とは正直なものである。逼塞する石岡をそのまま映しだしていた。
岡本太郎氏の「芸術は爆発だ!」という言葉が随分昔のことであるがコマーシャルなどに用いられ大流行したことがあった。その頃は流行語大賞なるものがあったのかどうだったのか記憶にないが、大流行した。山本直純氏の作曲、出演していた「大きいことは良いことだ」というのもその頃であったと思う。
この二つの流行語は、芸術・美術表現において核心を突いた、非常に重大なことなのであるが、石岡の美術展に出展されている作品には、観る者を破壊しつくすような勢いのあるものが皆無であった。
作品の作成において絶対に忘れてはいけないことは、己を劇しく(はげしく)現わすということである。それが確りと表現されていれば、色使いだとか、バランスだとか、構成だとかの稚拙さなど吹き飛んでしまうものなのであるが、観客をうならす劇しさは全くなかった。ことに賞を与えられた作品にはその強さを感じるものはゼロであった。
形にはまった作品が受賞を受ける美術展は、美術展とは言えない。それこそ市長賞を市長自身がが評価・判断出来る筈もないので誰かが、それなりに何点かの候補を挙げるのであろうが、候補作を上げる時点でおそらく最低最悪の判断基準をぶら下げて選択したのであろう。
文化力が国(ふる里)の将来を構築していくのであるが、この美術展を見る限り石岡の将来はまだまだ暗い。
おそらく、暮らしの中で爆発力を持って美術の創造をしている人たちは、この美術展には出展しないのであろうと希望を持って小生は思っている。
(ヒロ爺)
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お猫様の求めるは心の快 秋晴れに笑顔 

今日は会う約束をしていたので出かけて来たが、約束者と話をしながらお猫様を思い出した。お猫様でもお犬様でもお馬様でもどんな動物でも良いのだが、彼等はみな己の心の快だけを思い、考えて行動を創っている。その創り出している行動には姑息も卑猥もない。純粋に己の心の快だけを創ろうとする。
純粋に己の心の快だけを見つめ、その実現を創る行動だけをしよう、と言うと愚かな人間どもは快を楽(らく=棚から牡丹餅)と錯覚し、自分だけ楽をしようとする。悲しいことである。
今日会った人達は、現在のふる里を憂い、国の末を憂い、何とかしなければと行動を起こそうと考えている人たちであったのであるが、彼らの話を聞きながら憂いてやまないふる里を作ってしまったのは自分たちであり、末を案じる若者を育てたのは自分だという認識がない。それを指摘すると、その通りとは言うものの自分は違うと思っている。話をするのが面倒になって来た途端、お猫様の純粋に己の心の快だけを創ろうとする日々の暮らしぶりが見えて来た。
自分が自由であるためには、他人の自由を命を賭しても守るという意識がない限り、自分が自由に居られることはできない。お猫様達の本能的生きざまには教えられるものが沢山あるものだ。己の心の快を創るために、このご主人様に大声を上げさせる。満足したらプイと遊びを止めて寝てしまう。お猫様の素晴らしいのは心の快を飽食しようなんて卑猥な欲のないことである。
今日もお猫様に教えられる(ヒロ爺)でした。
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お猫様大満足の四日間

お猫様には大満足の四日間であり、小生にとってもこのブログを書く以外何もしなかった四日間であった。明日は人に逢わなければならないので一日ゴロゴロというわけにはいかない。
四日間、お猫様を観察していて改めてネコ族というのは家庭的でないことを確認した。自分本位で嫉妬深い。二人きりでいる時は、纏わりついては来るが、朝食、昼食時には静かに膝の上に丸まっていて、小生の食事の邪魔をすることはない。ところが妻が帰ってきての夕食時がいけない。妻とテーブルにつき話をしながら食事を始めると途端、小生の机の上にのり、ガタガタと悪さを始め、小生の気を引こうとするのである。
一番困るのは、キーボードの上をわざわざ歩くのである。今は、夕食時にはパソコンの電源を切るのであるが、うっかり消し忘れてでもいると大変なことになる。それで、お猫様が一人で机に行くと、小生直ぐ立って行って「こらッ!」と大声で叱るのであるが、それがお猫様の狙いなのである。
パソコンの電源が入っていなくとも、机の上を歩きまわられると、大層困るのである。本の背表紙でわざと爪とぎをしたり、消しゴム・ペン・メガネ等を猫パンチで飛ばして遊んだり、積み上げてある資料をわざわざ落としたりと、色々な悪さを考え付くのである。「こらッ!」と叱りにやって来ることを想定して悪さをするのである。
どうやら小生が、妻と話をするのが気に入らないらしいのだ。妻が「耳ちゃん、耳ちゃん」とそれこそ猫なで声で呼んでも知らんぷりである。小生が「こらッ」と一声あげて立ち上がると、大喜びに部屋を駆け巡るのである。妻のいない夕食は、おとなしく膝に丸まって抱っこされているのである。
ネコ族のこうした自分勝手な執念深さが、根暗を思わせ、怪しげな動物に仕立てたのであろう。群れで生活する犬には決して見られない嫉妬心である。
(ヒロ爺)
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今週はお猫様 あなたのための一週間

この三日間、買い物等の短かな時間家を空けるだけで後はずーッと炬燵に足を突っ込みゴロゴロしている。今日のように外は雨だと縁側に日向ぼっこというわけにもいかず、切り倒された雑木のように横になったまま炬燵に足を突っ込み、何もせずぼんやりとしている。
当家のお姫ィ~様であるお猫は上機嫌である。炬燵に突っ込んだ小生の足を枕に寝ていたと思うと、出てきて小生の懐に抱っこされる。炬燵の中と、我が懐を行ったり来たりしている。たまにトイレに立ったり、コーヒーを淹れに立ったりすると足元にピッタリとへばりつき歩行を邪魔する。「こら~ッ!」と、わざと大声を出すと大喜びに駆け回る。
台所でコーヒーを淹れていると、スリッパをパンチ・パンチしながらひっくり返ったり、わざと足を木登り状態に登って来たりするのである。小生の「こら~ッ」と叫ぶ声が欲しいらしい。「こら~ッ」と大声されると、大はしゃぎに部屋を駆け回るのである。
明日もう一日、何もせず、こんな風に過ごしてやろうと思っている。書かなければならない原稿はあるのだが、考える気も書く気もない。実に幸せな気分である。明日は、出来ることなら陽が照って欲しいのだが無理そうである。ひねもす炬燵にゴロゴロとなりそうである。
お猫様は、今、小生の膝に丸まってゴロゴロと喉を鳴らしている。
(ヒロ爺)
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陽だまりにお猫様を抱っこして昼寝する

昼食時にちょっと出かけて来たが、後は昨日に続きズーッとお猫様にお付き合い。陽だまりの縁側に抱っこして昼寝する。陽が陰ると途端に寒くなり、今度は炬燵に入り寝っ転がる。お猫様は、炬燵を出たり入ったりしながら、小生にちょっかいを出す。如何やら遊んでもらいたいらしい。わざと知らんぷりをしていると、顔の前にわざわざ寝転び、顎鬚を引っ掻くふりをする。それで、「ガオ~ツ!」と大声を出してライオンのまねをして前足パンチを繰り出してやると、飛び起き、全力に部屋を駆け回るのである。こらッ! と追いかけて欲しいのであるが知らんぷりに横になっていると、またやってきて顔の前に寝転び顎鬚を引っ掻くふりをするのである。それを知らんふりをすると、本当に引っ掻かれるので、「ガオ~ッ!」と声を出してやる。するとまた部屋の中を駆け回るのである。それを何度も何度も繰り返すのである。そんな他愛ない遊びが楽しくてしょうがないらしい。2、3歳ぐらいの子供と全く同じである。自分が満足すると、パタンと止め、行き倒れたように炬燵にもぐりこみ寝てしまうのである。明日も、特別予定をしていないので、こうしてお猫様を遊んでやることになるのだろう。
こんなことを2、3日続けると、お猫様の日課になってしまうので明日は違うことを考えなければいけない。
幸せすぎる厄介とはこういうことを言うのだろうな。
(ヒロ爺)
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冷たい雨の落ちてきてお猫様にパンチをもらう

今日は、定期公演も終わり、特別やることのない一日だったので、朝は寝過ぎなほどゆっくりと布団の中にもぐりこんでいた。お猫様は、早く起きろと何度も起こしに来たが、ぐずぐずだらしなく布団にもぐりこんでいた。8時過ぎにようやく起きだし、コーヒーを淹れ、洗濯機を回し、ぐずぐずと朝食をとる。新聞は休刊日であり、手持無沙汰にテレビを見る。お猫様は、早くブラッシングに行こうぜ、と誘いに来るが「まあ待て待て」とコーヒーをすする。洗濯の終了を告げるアラームが鳴ったので、干すために庭に出る。直ぐにも雨が落ちてきそうな空模様である。お猫様は、部屋の中をウロウロ、ウロウロと歩きまわり、ブラッシングを早く早くと催促している。「ちょっと待て。朝のお勤めを先に済ましてからだ…」と個室に入り、出てきて、ブラッシングをしてあげようとしたら、雨が落ちて来た。慌てて洗濯ものを家に入れ、炬燵に座り込んだら、お猫様がやってきて膝にのると突然に小生の顎鬚にパンチをくれた。
しかし、しかし、怠惰というのは、なんとなんと長閑なことか。これをきっと平和というのではないだろうか。
(ヒロ爺)
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難台山の紅葉 舞姫に頬染めて

ことば座の公演が本日で終わった。吾がユッキーちゃんは本当に良く舞えたと思う。三日目の今日が一番のスケール感を発揮する事ができた。野口喜広さんのオカリナに舞う姿は、まるでオカリナの音と舞いが語り合っている感じであった。ユッキーちゃんには、プロの朗読舞俳優としての合格点を与えて良いと思う。舞台表現の重要な要素といえば出演者がそれぞれの言語で、自分の表現すべき必然性をぶつけ合い、語り合えることであるが、今回はそれが十分になされたと思う。これから先が益々楽しみな女優さんである。
ユッキーちゃんとは対照的であったのは、ことば座特別研修生の兼平良雄さんであった。昨日の公演後、色々な人から勝手な批評を聞いて、それをまともに考えて最終日の今日は自分を表現することができず、大いにフラストレーションを持たれたことであろう。舞台のかたずけが終了してお茶を飲みながら話したときに、「演出家の私が何の指示もしていないのに、他人の無責任な話を聞くからですよ」と話したら、「そうだ演出家から何も指示されていなかったのだ」と気付き悔しがっておられた。これがもし、ユッキーちゃんだったら大層に叱られるのであるが、生涯学習として物語の朗読を通して自己表現をしていくことに挑戦しているのであるから、今回は一つの良い学習であっただろうと思う。
しかし、兼平さんの一件を振り返りながら不思議に思うのは、標準語のことを正しい日本語だと思い違いをすると同じように、正しいと思い込むための標準を作りたがるのだろうか、である。先日、お亡くなりになられたが、演劇界の大先輩である長岡輝子さんが、宮沢賢治の詩を東北弁で朗読されたのを聞いて、彼の詩はこの東北の言葉で読んで初めてその温かさが心に伝わってくるのだということを知らされたのであったが、そうした大切なことをどこかに捨てて、標準という尺度を作りたがる。
朗読というのは、演劇の一つの形式です。演劇というのは劇しく演じることをいいます。朗読に劇しく演じるとは、創作されてある物語を借りて、そこに表現者の心を現わす事を言います。この一番大切なことを抜きにして語られる批評なんて、放っておきなさい、と小生は教えているのであるが、…。
このように重要なことを全く理解していない人は誰かと見てみると、教師と呼ばれる職業についていた人たちと知ると、日本の文化国家はまだまだ遠いなと悲観的になる。
公演の終了に当たっての感想でした。
(ヒロ爺)
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舞姫よ明日の夢を大きく笑顔に

今日はことば座公演二日目であった。ユッキーちゃんの舞は初日に比べて格段に良くなっていた。この舞い演技であれば、もう何処へ出しても恥ずかしくない。中央の大舞台に立っても、そのスケール感は見劣りすることなく観客を圧倒するだろうと思う。身びいきではなく、演出家としての客観的な目で見てもその評価は間違いないと断言してよい。
しかし、残念なことではあるが、観客が少ない。初めて来られた土地の人の話であるが、ギター文化館への認識もなかったそうである。ここが世界的に評価されているギターのための演奏ホールであることも全く認識がなかったというのである。淋しいことであるが、それが現実である。
歴史では飯は食えん、の情けない認識がこの国のすべてを覆い尽くしているのではないだろうかという悲観的な思いもよぎるが、嘆いていても改善はできないのだから、小さな一歩一歩の点を打って行くしかない。
音楽でも、演劇でも、書でも、文でも、陶芸でも何でも文化的に豊かに盛り上がりを創っていかなければ、その地は滅びるしかない。産業と文化は表裏一体のものであることにそろそろ目を向けたいものである。
明日のユッキーちゃんの大きく豊かな舞いを想い、明日への希望を思いたい。
(ヒロ爺)
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薄紅葉に染まる難台山を見上げて舞姫の舞う

今日は、公演の初日。朝から舞台装飾と会場整理。会場少し前に終わり、バタバタと衣装を着替え一服する間もなく開演。開幕直前ユッキーちゃん、「方丈記の一部が頭から飛んじゃった」とうろうろし出す。「大丈夫。言葉が飛んでも舞いが覚えているから」と励まし、本番に向かう。
前座に兼平さんの生涯学習「平家物語」全句朗読への挑戦、第二句目の朗読。昨日の通し稽古では、順調な仕上がりであったが、初日の今日はやはり緊張で読みが早くなる。どんなベテランの俳優であっても初日に緊張をしない人はいない。しかしその緊張を楽しむことができるものである。明日の二日目は、自分の朗読を少し楽しむことができるだろうと思う。
ユッキーちゃんは流石である。本番が始まると、「あら、セリフが飛んじゃったかしら」と平然と楽しんで舞を行っていた。一、二か所飛んだが、平然として舞ってくれていたので、観客には気付かれず朗読の帳尻を合わせられた。明日からは伸び伸び今日以上のスケール感を持って舞ってくれるだろう。ユッキーちゃんの舞いに付けてくれた野口喜広さんのオカリナが見事であった。ユッキーちゃんの舞いに合わせて演奏をするという感覚はなく、一緒にオカリナで舞いを楽しんでいた。
まだ20時30分であるが、今日は小生も早々と寝かせてもらおう。
(ヒロ爺)

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天は高く紅葉の風に乙女らの舞う

明日から三日間、ギター文化館でことば座の第19回定期公演である。今日は、朝から最後の通し稽古を行った。オカリナの野口さんとユッキーちゃんの舞の息がぴったりであった。前日の今日になって、突然の演出変更などがあって、程良い緊張感が二人の息をいつも以上にピッタリ合わせたのであろう。明日からが楽しみである。
生涯学習として平家物語の朗読に挑戦する特別研修生の兼平良雄の語りも良かった。
明日から三日間、石岡市柴間のギター文化館で午後1時半開場、2時開演で行います。今回は、常陸国最後の南北朝争乱にまつわる伝え話を軸に書き下ろした「難台山城落城哀歌」(常世の国の恋物語第26話)。入場料は3,000円です。
ことば座の行っている「朗読舞劇」は朗読を手話を基軸とした舞いに表現する、全く新しい舞台表現です。興味のある方は是非一度ご覧ください。朗読舞女優小林幸枝ことユッキーちゃんの大きなスケールの手話の舞に圧倒されます。
(ヒロ爺)
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ひねもす猫を抱いて縁側の陽だまりに涎する

今日は久しぶりにまる一日何もしないで、お猫様を抱いて縁側の陽だまりに寝転がり、涎を垂らしていた。実に良いものである。本当は、この石岡に越して来た日から、今日のように何もせずゴロゴロとお犬様やお猫様と競争で午睡に涎を流すはずであった。しかし、人間とは不思議なもので、何もせずひねもすゴロゴロしていると不安になって来る。こんなことしていて良いのだろうか、何もせずブラブラと散歩していては罰が当たるのではないか、等々必要のない反省のようなことをしてしまう。だれにも迷惑をかけているわけでもないのだから、世間・近所に気兼ねしたり、卑屈になったりする必要なんてこれっポッチもないのである。それなのに何となく反省をするような気分になってしまうのである。
そこへいくとお猫様やお犬様は、もう堂々としている。腹が満腹したら、決して動くことはしない。この満腹を如何に長く維持するかだけを考え、ひたすら陽だまりに目を閉じているのである。これは自然界にいた頃の知恵がいまだに身についており、忘れることなく守っているのである。動いたら腹が減るし、腹が減ったからといって自然界では直ぐに餌にありつけることはない。だから一度満腹すると、その満腹を少しでも長く維持するためジッと寝ているのである。
お猫様と一緒に午睡に涎を垂らしながら気付いたのであるが、お猫様もお犬様も動かずジッと寝ているのであるが、筋力が衰えないように、目が覚めるたびに伸びをして、全身ストレッチングするのである。これを繰り返しやることで強靭な筋力を維持しているのである。汗を流して重いバーベルを持ち上げ筋トレをするよりも、筋肉を伸ばすというストレッチングの方が、筋力をつけるには効果的なのだという。特に柔軟な筋力をつけるためには、無闇に重量のあるバーベルを持ち上げることは避けた方が良いのだという。
お猫様と陽だまりに寝転がっていて大切なことを気付かせてもらった。あくせく頑張って小銭をためるよりも、一度満腹にしたら、それをできるだけ長く維持するために何もしないで寝転がっている方が、小銭ではなく大銭が貯まるのだということを。
(午睡に教えられたヒロ爺)
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おい蟻ん子よ急いで何処行く

蟻ん子に急いで何処行く、と一行の詩に詠ったのは石岡に越してきて間もなくの頃であった。もう十二年も前のことになる。喧騒な東京をようやく離れることができて、孫娘のパグ犬「葉津」を連れて良く散歩し、色々な物を改めて眺め直していた頃に詠んだ一行詩である。
ところが今の自分を振り返ると、実に忙しすぎる毎日である。何かやることがあるのは良いことなのだけれど、些かオーバーワークである。まだ来年のことを言うのは早すぎるかもしれないが、来年はもう少し気分的にゆとりを持って日を過ごすことを考えなければ…と思う。
今日は、兼平良雄さんの平家物語の練習にギター文化館に行って来た。公演までいよいよ時間がなくなった。木曜日に通し稽古を行って本番である。朗読語りの面白さにどんどんはまっていく兼平さんである。自分に気持ち良く楽しんでもらいたいものである。
朝起きると深い霧であったが、午後には晴れ、強い風となった。今もガタガタと雨戸を吹き鳴らしている。お猫様は、これから寒くなるのを見越してか炬燵の中から出てこようとしない。小生も今夜は早く床に入るとしましょうか。

(ヒロ爺)
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夕闇にジェンベのリズム舞姿の大きく

公演までの稽古がいよいよ今日と、木曜日の一日となった。ジェンベの一調で舞う方丈記もどうやら完成である。
今日の稽古に、舞台背景画を担当してくれている「風のことば絵」作家の兼平ちえこさんが来てくれた。方丈記の舞を見て感動されていた。小生の記憶、認識からすると方丈記を舞いに表現するのは初めての事だろうと思う。勿論、手話を基軸とした舞いというのは、ことば座でしかやっていないので当然、演劇史上初めての試みである。
言語としての手話は、未だ未だ未成熟な言語であり、特に古典物を演じることは容易なことではない。現代語に訳した文であっても、方丈記の書かれた時代を想像しながら舞としての手話への翻訳はさぞかし大変であったろうと思う。おまけに難台山城に立てこもった小田五郎藤綱の妻の独白で進む話は、古語の武家言葉なのだからそれを手話にするのも一苦労である。現代文の舞歌の下りに来た時の小林幸枝の安堵した舞い演技は籠から放たれた蝶蝶のように自在な舞い動線を描く。
興味をもたれた方には是非観に来てもらいたいものである。
自画自賛ではないが、小林幸枝の朗読舞を海外の劇場に演じたら、観賞力の優れた観客からブラボーの渦の止むを知らず、となるであろうと思う。
ことば座の公演は、11月12、13、14日の三日間、石岡市柴間のギター文化館で午後二時開演です。
(ヒロ爺)
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誕生日あと幾つ歳を越す秋の暮れ

自分の誕生日はとうに過ぎたのであるが、昨晩布団の中でこんな文が口に突いて出たのであった。小生も老いの先を考えるようになったのかとちょっとさみしくなったのであったが、昨日は、ユッキーちゃんの誕生日であったのだ。しかし、考えると「あと幾つ歳を越す…」とは淋しすぎる歌で、女優さんを詠う歌ではない。おまけに「秋の暮れ」である。これはユッキーちゃんを借りて自分を呟いた文である。
こんな言葉が呟きに出てしまうというのは、小林幸枝という俳優をこの石岡に発見し、演劇界になかった様式の舞い表現を創出したまでは良いのであるが、小林幸枝の才能を演劇界にどのように認知していこうかを考えると、やはり一度廃業宣言をした己への不安なのだろうと思う。己への不安とは、先の体力の勘定をしなければならないということである。小林幸枝と同年代であるなら、そんな心配をすることはないのであるが、彼女とコンビを組んで朗読のできる俳優を育成するには、一、二年で出来ることではないからである。地方の小市で人材を募集、発掘することは容易なことではない。そんなことを考えると、ついついあと幾つ歳を越せるかと勘定もしてみたくなるのである。
現実とは、かくなるものとは解かっていても、人間とは現実を足掻きたくなるものである。
ちょっと淋しい今夜の(ヒロ爺)
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小春日和に目を細める童女何を思うてか

今日は鶴見周作氏の石彫展に行ってきました。石岡香丸資料館での個展は今回でもう25回になるとか。続けているうちにこうなりましたと鶴見氏らしい言葉。今年展示された石彫の表情が、今までと大きく変わっていた。表情…というより視点の結ぶ位置が随分と遠くなったように思う。鶴見氏の見つめる先が遠くなったのであろうか。演出家である小生にとって、視点の結ぶ先が大きく変化することは非常に気になることなのであるが、頻繁に会って話すわけではないので、彼のどのような心境の変化が生まれたのかは解からない。しかし、石彫の穏やかな風姿が失われたわけではないので、安心して傍にいてもらえる。
自然石に彫られた童女の表情がこれほど確かなものであるのに、新聞テレビの報道を見ると実に情けなく、明日に対する希望を創造しようという姿勢が全く見えてこない。そう思うのは私だけではないだろう。中国漁船の問題も希望の創造もないまま、右往左往のための右往左往をやっているように見えて仕方がない。こんな様子を見ていると、石岡というふる里が無気力に逼塞していくのは、日本という国の必然といえる。そう考えてくると、鶴見氏の彫刻の表情を決める視点の結ぶ位置が遠くなったというのは、国の必然に連動してのものなのであろうか…。
まさかネ!
(ヒロ爺)
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目覚めれば霜の降りて一番の寒さ

今朝、目覚め寒いなと思いながら、新聞を取りに外に出て驚いた。車の屋根が霜が降りて凍っていたのである。起きる時間だぞとお猫様が呼びに来なかった理由がわかった。お猫様のヒーターを炬燵に入れておかない時には、少し寒いと、明け方必ず布団にもぐりこんで来るのだったが、今はヒーターの上にいる方が快適なので、やって来ない。それでも何時もは、起きる時間になると必ず起こしにやって来るのであるが、今朝は余ほど寒かったのであろう、起こしにも来なかった。
突然の寒さの所為なのか、ユッキーちゃんがまたまた熱を出したようで、今日は稽古は休み。来週は公演なので早く治してもらわないと…。小生は、風邪をひくとインスリンの効き目が低下し、血糖値が上がってしまうので、風邪をひかないように普段から気をつけている。しかし、小生元来馬鹿が大きいらしくなかなか風邪をひかない。風邪で寝込んだ記憶は、もう十数年無い。
風邪で思い出したが、二十数年前のことである。クランクアップの日にとうとう高熱を出しダウンした事があった。助監督に指示を出し、製作担当にダウンを伝えたのであった。何時もは何とかならないかと粘る製作担当は解かりましたと電話を切った。俳優さんの絡みのない情景カットだけなので緊張の糸が切れたのであろう。ところが、30分ほどしたら製作担当が我が家に迎えに来たのである。医者に連絡し、注射を打ってもらうよう手配したので行きましょう、というのである。それは又親切にと思ったら、そうではなかった。解熱の注射を打つとそのまま現場に連れて行かれたのである。映画界というところは恐ろしい所である。
しかし、現在私の周りには、そんな人非人はいない。逆に小生がユッキーちゃんから「稽古は何があっても休むな!」と叱る人非人のようだと思われているようである。
(ヒロ爺)
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秋の老いて 首にタオル巻く淋し

今朝は本当に寒かった。明日の朝もかなり冷え込むらしい。
今日はことば座の稽古は休み。一日家にいて、お猫様を膝に寝かせ、会報「ふるさと風」の編集をしていた。全員の原稿を打ち終わり、自分の原稿を書かなければならないのだが、日々雑感のような内容の文が書けなくなってしまった。毎日このブログに、日々の雑感を書いてしまうものだから些かネタ切れの状態なのだ。
ふる里頑張れと、問題点を指摘し、その進むべき方向への基本的な考え方を述べていると、情けない現状に腹が立ってくるので、最近は控えているので、なおのこと書くことが無くなったのだ。今度の日曜日が、会報作りなのでそれまでに何か書くことを考えなければならない。
「ふるさと風」は、ふるさとの歴史・文化の再発見と創造を考えるふるさと風の会の会報である。今月号で第54号となる。毎月の発行だから結構大変である。しかし、原稿を書く会員は、今まで一度も執筆をパスしたことがない。実に勤勉で情熱的な方々である。朗読劇団ことば座の兄姉に当たる会で、ヒロ爺、ユッキーも風の会の会員なのである。
…で、今日は尻切れトンボであるが、これで終わろう。

(ヒロ爺)
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秋日和に微笑む舞紅葉

ことば座定期公演が来週に迫った。今週、月曜、火曜、そして今日水曜と小林幸枝、ユッキーちゃんの舞が急速な発展をしている。特に、方丈記の舞が面白い。自画自賛になるが、方丈記を手話という動作言語の舞に表現できるのは、小林幸枝という女優さんしかいない。欧米にはサインダンスというものがあり、劇場公演も行われている。ブロードウェイからやってきて日本でも公演が行われた。しかし、我がユッキーちゃんの朗読舞は、リズムやメロディーに踊る舞ではなく、言葉を舞う当に日本独特の、日本でしか成し得ない舞である。一切の無駄や装飾を排した観阿弥・世阿弥のいうところの能表現を二十一世紀の言語に舞い語るのである。
方丈記を舞うというのもこれまでなかったであろうと思うが、方丈記を手話の言語を持って舞い表現するのであるから、演劇界においては凄いことなのであるけれど、残念ながら地元石岡の人達には、馬の耳に念仏のようなものである。
ギター文化館の秋日和に微笑む舞紅葉をぜひ見に来ていただきたいものである。11月12日~14日、午後二時開演。
詳しくは、http://www.furusato-kaze.com/を。
(ヒロ爺)

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山の天辺から紅い風の景が降りてくる

今日は、朝一番でギター文化館に出かけ、生涯学習として平家物語全巻の朗読に挑戦するべく、ことば座特別研修生となられた兼平良雄さんの舞台稽古を行ってきた。ことば座公演の前座として今度で三度目の舞台である。
小生もしばらくぶりに舞台に立つと、観客が居なくとも普段とは違う緊張を強いられる。兼平さんが大層な緊張を感じてもそれは仕方がないことである。
舞台に立つと誰でも普段よりもタイムカウントが早くなるものである。舞台の上でスポットライトを浴びて、10秒のカウントをさせると、普通の人は7秒で10秒をカウントする。呼吸配分も当然早まるので、普段よりも余計に息を吐いてしまう。そのため、息切れを起こしてしまう。頭の中ではゆっくりと考えながら、肉体は7秒のカウントの早さで動いてしまう。当然アンバランスの状態になる。アンバランスな状態でもがけばもがくほどアンバランスが大きくなる。今日の兼平さんはまさにそうであった。今日の稽古はさぞかしくたびれただろうと思う。
小林幸枝と初めて会った時、彼女の動作表現のスケール感の大きさに驚かされたのであったが、本番の舞台でもっと驚かされたのは、表現が大きくなると同時に動作がゆったりとしてくるのである。大ベテランの俳優さんと同じことが初めての舞台で行えるのである。本人は自覚がないのであるが、舞台でお客を前にすると、無意識に余分を排除して十分な表現を伝えようとするのである。これは明らかに彼女の生まれ持った才能なのであろう。演技の基本を教える前に基本を飛び越えたスケール感があることは、才能と言うしかない。
夕方から、小林と稽古をしたのであったが、昨日、共演するオカリナの野口さんと会って話し合ったこともあり、舞いが益々に大きくなってきた。本番が楽しみである。
(ヒロ爺)
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秋深い夜空にスクランブルジェット

今夜は、オカリナの野口さん宅で、舞の稽古をしてきた。野口さんの舞にあわせるオカリナの最終チェックである。この後は11月11日の午前中にギター文化館で通し稽古を行い本番に臨むことになる。
野口さん宅に行く道、轟音を響かせ夜空に飛び立つ戦闘機に出会った。スクランブル発進なのであろうか。日本海での中国との緊張、北方領土での大統領の視察、朝鮮半島での緊張と物騒になりかねない気配が漂っているので、航空自衛隊のスクランブル発進が増えているのであろうか。
野口さんに聞いて初めて知ったのであるが、行方市浜の地域は戦闘機の進路になっているのであるが、騒音保障の区域外なのだそうだ。徒歩でも直ぐの旧小川町であるが、そこまでが保証区域で、浜などは保障されないのだそうである。風向きによって発信の方向が変わるのであるが、霞ヶ浦に向けて発信する時、特にスクランブル発進時には大変な轟音である。ちょっと大きな音でもパニックになる我が家のお猫様は、到底連れてはいけない。
現状においては、不可欠の国防策ではあるが、人間という奴はいつまでこんなことをやっているのかと思うと情けなくなってくる。所詮は、人間とは私利私欲の殺戮合戦を止められない地球にとっての害獣なのであろうと思う。
かつて大昔のこと、常世の国とはこの国のことであろう、と言わしめた豊かなで平和に暮らせる地であったのだが、ここは常世の国と言った途端に私利私欲の輩が入れ替わり立ち替わり争奪争いを始め、その1300年の後の今の世は、奪い合うものが無くなり、見事な逼塞ぶりである。情けないとはこのことであろう。
せめて我等がことば座の舞では、人間らしく恋に悶々とした姿を現わしたい。
(ヒロ爺)
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プロフィール

ヒロ爺

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ヒロ爺は、映画・演劇の脚本・演出を生業としておりましたが、日本シナリオ作家協会を退会し、何もやらない何もしない暮らしを始め、周囲の顰蹙を買っています。しかし、何もやらない何もしない暮らしは、その才能と精神力がないとできないことを知り、改めて己を天才(天災)かも知れないと思っている所謂呆け老人です。

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